あちらの人はおしゃべりです。
まぁ、よくしゃべる。知らない人とでもおしゃべりする。ご飯を食べながらおしゃべりする。仕事の最中もおしゃべりする。
学会に行ってもよくしゃべる。仕事の話もよくするし、仕事以外の話もよくする。
よくもまぁ、しゃべること。ちょっとは静かに実験せい。
と、向こうに行ったばかりの、おしゃべりを楽しめるほどの英語力を持たない私は、よく思っておりました。でも、口がほぐれてくると、よくしゃべる人たちと、よくしゃべるようになりました。習慣って、コワイ。
で、日本に帰ってきた。
もともと、日本人としてはおしゃべりだった私ですが、かえってきたら、もっとおしゃべりになっていたわけです。
ちっとは静かに仕事せい。
と思われる方もおいでかもしれませんが、誰彼かまわず(失礼!)たくさんの方たちとおしゃべりすることを心掛けて、職場に溶け込むのも雰囲気をつかむのも早かったと思いますし、おかげさまで快適に仕事ができております。
仕事のおしゃべり、をしたことがある別部局の思わぬお方から、思いがけないタイミングと事柄で助けていただいたり、アドバイスをいただいたこともあります。
殊に仕事についてしゃべること、は、『自分がどういうことに興味を持って、何をしたいかと思っているかを表明すること』、なんですよね。そして、わかりやすい人間=近づきやすい。いろいろな方とのおつき合いって、わかっていただけると、とてもスムーズにいくもののようです。
この間書いた、PacBioのフリーシーケンスキャンペーンに選んでいただけたのも、『おしゃべり』のおかげだと思っています。
研究会の会場で、このキャンペーンのアナウンスをしてくださった発表者Oさんいわく、「あなたの計画している研究テーマが、どれだけ面白いか、どれだけ熱意を持っているかを手段を選ばず売り込んでください!」。
もちろん、後日、カラフルで面白げなレジュメを作って提出させていただきました。
でも、私の中でのレジュメの位置づけは、どちらかといえば『ダメ押し』。直接話したほうが絶対いい!と思い込んでいる私は、このアナウンスの直後に、既に一度名刺を交換していたOさんのところに、自分の名刺をもう一度お持ちしました。今度は、名刺に自分の研究ポスター番号と発表時間を書き込んで、「ぜひ応募したいので、よろしかったら、このポスターにこの時間に見にいらしてください」とお願いしたんですね。Oさんは、お忙しい中、ちゃんと来てくださいました。
正直言って、たくさんの応募したい人たちが、同じことを考えるに違いない!と思ったので、アナウンスの後に、書き込みした名刺を手に、遠巻きにOさんを見守っていた私ですが・・・・・・待てど暮らせど、誰もアプローチしない。たくさんの人がアプローチするならば、一番最後に話しかけないと忘れられちゃうからね、と思っていたのだけど、その心配もなかった。
でも、なんで?!『売り込む』のに一番いいのは、顔を合わせておしゃべりすること、なのに。
学会だの研究会だのって、それでなければ会えない人と『専門的おしゃべり』を楽しむためにおカネ払って行くものなのになぁ。
帰ってきて2年間。仕事のしやすさにしても、いろいろな方とお知り合いになれたことにしても、これまでの人生のどの2年間よりも、ついているなぁ、と実感しています。
そして、このツキを呼びこめたのは、たくさんの人とおじずたゆまず沢山おしゃべりできたからだ、とひそかに確信しています。
岡山大 資植研 萌芽・学際新展開G公式ブログです。 毎週、私たちがどのような仕事をしているか、大学で研究するというのはどういう生活なのかをお知らせしていこうと思います。 どうぞよろしくお願いします。
2013年11月29日金曜日
2013年8月16日金曜日
それってつまり・・・・・(これも一種の出羽の守バナシ)
今回は 自己責任 ということばについて。
今の30代前半、あるいは20代より若い方々にとっては既存の日本語として認識されて来たかもしれませんが、この言葉、17-20年程度前に初めてお目見えした『造語』なのです。いまとなっては大昔となった『ペイオフ解禁』『金融商品の銀行店頭取扱開始』などなど、金融、ひいては経済界を大幅に自由化しようという政治の動きに伴って生じた言葉と記憶しています。
ほとんどの場合、自由な選択の結果に対する責任に伴う重圧を表現するために使われますよね。自己責任、ときいて、「責任に伴う緊張感・重圧感」と「風通しがよくて、すっきりさわやか」のどちらがぴったり来ますか、といわれて・・・・・・後者を選ぶ人は何割になるでしょうか。
8月に入ってから、「大学で研究するってどういうことか?」という話題で、高校生・学生さん世代の方々とお話をする機会が多く、で、この言葉を聞いたり使ったり、の機会が多かったのです。
そのかわり、結果を出さなければなりません。
自分で自由に決定し行動する代わりに成果が問われる。
とくに、任期付ポジションで失敗したら、行き場所を失って自由落下というオマケつき。これぞ『自己責任』。
まだ米国にいたころ、この『自己責任』ということばを英語に直したらどうなるのか、と考えたことがあります。
自分で決定。自分で行動。両方ともその自由が保障されている。結果いかんは、当然本人に帰ってくる。
とはいえ、当時は国民皆保険がなかったうえに、年金は401k=自分で投資して貯蓄する、となれば老後の資金は、つまり自分の投資能力にかかってくるというスタイルが一般的な米国では、自分で決めた結果が自分に帰ってくるって、あんまりにも当たり前で造語の必要もなさそう。
自己責任、に英語を当てたら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Independence?
考えてみれば、自分で決めて行動する自由が保障されているって、『独立』以外の何物でもない。で、独立していたら結果が自分に帰ってくるのは当たり前なのであって。
逆に、自分で決められない、行動も制約がある、しかし責任は悪くすると追及されたりしちゃう、という生き方に較べれば、よほど風通しがよく、すっきりさわやか、ではなかろうか。
先週の、「冒険野郎たちとの会合」の中で、「大学で独立ポジションを取って研究するっていうことは、自分ですべてを決められるっていうことで、それはすなわち、30代初めなんていうカタギの社会では考えられないような年齢で、自分のしたいことをしたいように追及して、結果次第では世界を変えられちゃうってことだ」と言った人がいました。
私は、自分が世界を変えられるという発想はとても浮かんでこなかったのですが、しかし、自分のしたいことを自分がしたいように追及して、その結果を『直接』=上司だの会社・役所だのの決済をまつことなく、私自身が直に世に問う(国内外の研究者集団に問う、ということですが)ことができる、しくじったら、他の人に迷惑かけるわけじゃなし、自分にかかってくるだけ。そして、とーぜん、しくじらないという選択肢がちゃーんとあるわけで。
あら、なんぞ、すっきりさわやかな気がしてきたりして・・・・・。
今の30代前半、あるいは20代より若い方々にとっては既存の日本語として認識されて来たかもしれませんが、この言葉、17-20年程度前に初めてお目見えした『造語』なのです。いまとなっては大昔となった『ペイオフ解禁』『金融商品の銀行店頭取扱開始』などなど、金融、ひいては経済界を大幅に自由化しようという政治の動きに伴って生じた言葉と記憶しています。
ほとんどの場合、自由な選択の結果に対する責任に伴う重圧を表現するために使われますよね。自己責任、ときいて、「責任に伴う緊張感・重圧感」と「風通しがよくて、すっきりさわやか」のどちらがぴったり来ますか、といわれて・・・・・・後者を選ぶ人は何割になるでしょうか。
8月に入ってから、「大学で研究するってどういうことか?」という話題で、高校生・学生さん世代の方々とお話をする機会が多く、で、この言葉を聞いたり使ったり、の機会が多かったのです。
前にも書いたのですが、企業でも、公的研究機関でもなく、「大学で」研究をする、という生き方を選ぶっていうのは、私の中では、せんじ詰めればカネと安定よりも自由を優先する、ということです。
大学にはテーマ選択の自由がある(はず)。(そういう状況を自分で慎重に選び続ければ)、大学や学部の大枠からはずれないかぎり、学術的に意味が見出せるものであり、しかもその価値を他者に説明して納得してもらうことができれば、自分の興味をとことん追求できる。お給料はといえば、地味に堅実に生きていくぐらいのものはいただける。そのかわり、結果を出さなければなりません。
自分で自由に決定し行動する代わりに成果が問われる。
とくに、任期付ポジションで失敗したら、行き場所を失って自由落下というオマケつき。これぞ『自己責任』。
まだ米国にいたころ、この『自己責任』ということばを英語に直したらどうなるのか、と考えたことがあります。
自分で決定。自分で行動。両方ともその自由が保障されている。結果いかんは、当然本人に帰ってくる。
とはいえ、当時は国民皆保険がなかったうえに、年金は401k=自分で投資して貯蓄する、となれば老後の資金は、つまり自分の投資能力にかかってくるというスタイルが一般的な米国では、自分で決めた結果が自分に帰ってくるって、あんまりにも当たり前で造語の必要もなさそう。
自己責任、に英語を当てたら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Independence?
考えてみれば、自分で決めて行動する自由が保障されているって、『独立』以外の何物でもない。で、独立していたら結果が自分に帰ってくるのは当たり前なのであって。
逆に、自分で決められない、行動も制約がある、しかし責任は悪くすると追及されたりしちゃう、という生き方に較べれば、よほど風通しがよく、すっきりさわやか、ではなかろうか。
先週の、「冒険野郎たちとの会合」の中で、「大学で独立ポジションを取って研究するっていうことは、自分ですべてを決められるっていうことで、それはすなわち、30代初めなんていうカタギの社会では考えられないような年齢で、自分のしたいことをしたいように追及して、結果次第では世界を変えられちゃうってことだ」と言った人がいました。
私は、自分が世界を変えられるという発想はとても浮かんでこなかったのですが、しかし、自分のしたいことを自分がしたいように追及して、その結果を『直接』=上司だの会社・役所だのの決済をまつことなく、私自身が直に世に問う(国内外の研究者集団に問う、ということですが)ことができる、しくじったら、他の人に迷惑かけるわけじゃなし、自分にかかってくるだけ。そして、とーぜん、しくじらないという選択肢がちゃーんとあるわけで。
あら、なんぞ、すっきりさわやかな気がしてきたりして・・・・・。
2013年8月2日金曜日
出羽守バナシ その3: Interview@米国 ≠ 面接@日本
今回は、米国の大学で教員ポストを得るための選考、とくに面接についてです。書き始めたら、削っても削っても長くなってしまいました。
なぜ私が13年近くも米国にいて、いきなり日本に帰ってくることになったかと言えば、米国ではテニュアトラックの大学教員のポストを得ることができなかったけれど、日本ではたまたま得ることができたから、です。最終的に得ることはできなかったけれど、中途半端に最終選考までは残ってしまったことが数度ながらあり、となると、もう一度挑戦すれば次は通っちゃったりして、なんて思っているうちに滞米が長引いてしまった、というあたりが真相です。
専門誌に出てきた求人広告を見て、書類を整えて提出すると応募先でああだこうだと一次選考され、このうちから4~5名が選ばれて、とここまでは、たぶん万国共通。で、この数名がInterviewによばれます。
で、面接。先日書類の山から出てきた、私自身が経験したある大学での面接の日程は、以下の通りです。
1日目
4pm 近くの空港に到着、大学まで移動
6pm- 夕食 選考委員と
2日目
7am 朝食 選考委員と他学部教官と
8:30am 学群長と面談
9:15am 付属研究施設長と面談
10-10:30am セミナーセッティングの確認、休憩
11 am セミナー45分発表15分質疑応答
0-1pm ランチ 大学職員(教官以外)と
1-1:45pm 大学院生・学部生たちとミーティング
2pm ビルを移動して 教官Aとミーティング
以降、教官3名とそれぞれ30分ずつミーティング
4:30-5:30pm 他キャンパスへ車で移動、ホテルにチェックイン
6:30pm-9pm 夕食 他キャンパスの教官と
3日目
7am 朝食 選考委員と他学部教官と
9:30am- 教育部長と面談
10:30 am- 教官Eと面談
以降教官2名と30分ずつミーティング
0 - 1:15pm ランチ 2つの研究グループと
1:30pm- 2pm 教官Hとミーティング
2-3pm 選考委員全員とグループミーティング
3pm - 大学キャンパス見学
6pm-9pm 夕食 選考委員長・副委員長と
4日目 帰宅
…写すだけでも面倒くさいこのスケジュール、すべて終わるのに丸々二日以上。
2日間朝の7時から夜ご飯を食べ終わってホテルまで送り届けてもらえるまで、一人になれるのはお手洗いに行くときだけ。それ以外は、知らない人ととっかえひっかえ面談・おしゃべり・・・・・というのは、この『面接』以外ではなかなか経験できないものでしょう。クタビレマシタ。
受ける方も大変ですが、面接審査をやる方も大変。この学部は4名の候補者を面接したので、彼らはこの選考に、候補者と会うことだけで8日使ったことになります。でも、考えてみれば面接官たちは将来の同僚を選ぼうとしているわけで。精神的な問題を抱えている人だの、会話力に問題がある人だの、あるいは英語は通じても話が通じない人だの、素晴らしい業績を上げてはいるが、実はボスの言うとおりに素直に仕事をしてきただけで自分ではあまりものを考えない人だのは避けて、よい実績を持つだけでなく、コミュニケーションもスムーズで、問題なく研究を進め、さらに学生の指導も任せられそうな人を選びたいに決まっています。そして、2日間もいろいろな話をしていれば、小手先の技術だけではカバーしきれないもろもろが面接者が気付かないうちに人目にさらされているわけなんですね。
こういうのを受けつづけ、これがフツーと思い込んだのちに初めて日本の面接を受けたとき、その『落差』には驚きました。1時間半たらずでセミナーから面談からすべて終了。これでなにがわかるのだ~~、あ、これが出来レースというやつか、私の面接は消化試合だったのですね、と大いに納得し・・・・・・・実は、まじめにやっていたということを後で知ったこともあります。
でもね。一度大学に任期なしで人を採用したら、困った人だったとしても、もともとその大学にいた教官たちの同僚として居ついてしまうわけです。また、任期付の人であったとしたら、出ていくときまでにしっかりとした実績を出してもらわないと、まさにその人の生存に関わるわけで。数年後に送り出す側だって、ひやひやするような人はいやでしょう。なにより、大学とは教育機関、研究・教育実績とともに、そもそも人格だの(表面に出てくる)倫理観だの挙動素行だのに問題があるような人に来てもらっては大学の社会的責任にかかわる。
そう考えると、日本の大学、もう少し真剣に時間をかけて、矯めつ眇めつ人を選ぶ能力を身に着けないと、ゆくゆくは、大学教育のレベルにも問題が出てきて・・・・・・ということになってしまうのではないでしょうか。
単に、他国のマネをする、というのではなくて、他国の高等教育機関がどのぐらい真剣に人選に力を注いでいるかをみて、よさそうなところだけ取り入れれば、国の高等教育レベル=国際競争力にじわじわと貢献するのではないかと思うのですが。
いかがでしょう?
なぜ私が13年近くも米国にいて、いきなり日本に帰ってくることになったかと言えば、米国ではテニュアトラックの大学教員のポストを得ることができなかったけれど、日本ではたまたま得ることができたから、です。最終的に得ることはできなかったけれど、中途半端に最終選考までは残ってしまったことが数度ながらあり、となると、もう一度挑戦すれば次は通っちゃったりして、なんて思っているうちに滞米が長引いてしまった、というあたりが真相です。
専門誌に出てきた求人広告を見て、書類を整えて提出すると応募先でああだこうだと一次選考され、このうちから4~5名が選ばれて、とここまでは、たぶん万国共通。で、この数名がInterviewによばれます。
で、面接。先日書類の山から出てきた、私自身が経験したある大学での面接の日程は、以下の通りです。
1日目
4pm 近くの空港に到着、大学まで移動
6pm- 夕食 選考委員と
2日目
7am 朝食 選考委員と他学部教官と
8:30am 学群長と面談
9:15am 付属研究施設長と面談
10-10:30am セミナーセッティングの確認、休憩
11 am セミナー45分発表15分質疑応答
0-1pm ランチ 大学職員(教官以外)と
1-1:45pm 大学院生・学部生たちとミーティング
2pm ビルを移動して 教官Aとミーティング
以降、教官3名とそれぞれ30分ずつミーティング
4:30-5:30pm 他キャンパスへ車で移動、ホテルにチェックイン
6:30pm-9pm 夕食 他キャンパスの教官と
3日目
7am 朝食 選考委員と他学部教官と
9:30am- 教育部長と面談
10:30 am- 教官Eと面談
以降教官2名と30分ずつミーティング
0 - 1:15pm ランチ 2つの研究グループと
1:30pm- 2pm 教官Hとミーティング
2-3pm 選考委員全員とグループミーティング
3pm - 大学キャンパス見学
6pm-9pm 夕食 選考委員長・副委員長と
4日目 帰宅
…写すだけでも面倒くさいこのスケジュール、すべて終わるのに丸々二日以上。
2日間朝の7時から夜ご飯を食べ終わってホテルまで送り届けてもらえるまで、一人になれるのはお手洗いに行くときだけ。それ以外は、知らない人ととっかえひっかえ面談・おしゃべり・・・・・というのは、この『面接』以外ではなかなか経験できないものでしょう。クタビレマシタ。
受ける方も大変ですが、面接審査をやる方も大変。この学部は4名の候補者を面接したので、彼らはこの選考に、候補者と会うことだけで8日使ったことになります。でも、考えてみれば面接官たちは将来の同僚を選ぼうとしているわけで。精神的な問題を抱えている人だの、会話力に問題がある人だの、あるいは英語は通じても話が通じない人だの、素晴らしい業績を上げてはいるが、実はボスの言うとおりに素直に仕事をしてきただけで自分ではあまりものを考えない人だのは避けて、よい実績を持つだけでなく、コミュニケーションもスムーズで、問題なく研究を進め、さらに学生の指導も任せられそうな人を選びたいに決まっています。そして、2日間もいろいろな話をしていれば、小手先の技術だけではカバーしきれないもろもろが面接者が気付かないうちに人目にさらされているわけなんですね。
こういうのを受けつづけ、これがフツーと思い込んだのちに初めて日本の面接を受けたとき、その『落差』には驚きました。1時間半たらずでセミナーから面談からすべて終了。これでなにがわかるのだ~~、あ、これが出来レースというやつか、私の面接は消化試合だったのですね、と大いに納得し・・・・・・・実は、まじめにやっていたということを後で知ったこともあります。
でもね。一度大学に任期なしで人を採用したら、困った人だったとしても、もともとその大学にいた教官たちの同僚として居ついてしまうわけです。また、任期付の人であったとしたら、出ていくときまでにしっかりとした実績を出してもらわないと、まさにその人の生存に関わるわけで。数年後に送り出す側だって、ひやひやするような人はいやでしょう。なにより、大学とは教育機関、研究・教育実績とともに、そもそも人格だの(表面に出てくる)倫理観だの挙動素行だのに問題があるような人に来てもらっては大学の社会的責任にかかわる。
そう考えると、日本の大学、もう少し真剣に時間をかけて、矯めつ眇めつ人を選ぶ能力を身に着けないと、ゆくゆくは、大学教育のレベルにも問題が出てきて・・・・・・ということになってしまうのではないでしょうか。
単に、他国のマネをする、というのではなくて、他国の高等教育機関がどのぐらい真剣に人選に力を注いでいるかをみて、よさそうなところだけ取り入れれば、国の高等教育レベル=国際競争力にじわじわと貢献するのではないかと思うのですが。
いかがでしょう?
2013年7月5日金曜日
出羽守バナシ その2:転がる石・転がらない石
転がる石にコケはつかない。
英語でもRolling stones never collect mossという表現があって・・・・・というのは、たぶん、大昔に高校の英語に時間あたりに聞いたことがある話だと思いますので、割愛。
今回は、米国での大学教官の転職活動の話です。転職、といっても大学から他の業界に移るのではなく、ある大学から別の大学に移る、という話。
最近日本では、教授を公募することが多い、というハナシを以前にちらりといたしました。大学で働く場合、大概、助教として大学に入り、うまくいけばそのまま、あるいは場所を移って準教授になり、最終的には公募に応募して大概どこか別の場所で教授となる(なれれば、ね)、という、かなりノマドな人生設計、コケもつけないぐらいに転がり続ける形になることを余儀なくされております。
逆に、米国ではPI制をとっているため、助教として研究グループの主宰者として大学に入り、査定に通れば準教授、教授と昇格していきます。この間の昇格の制限となるのは本人の実績だけ。つまり、米国でそこそこ満足が出来る大学でテニュアトラックの助教として職を得て、数年後に査定に通れば、そのまま動かなくても末は教授になって、人生を全うできるしくみになっております。ボールを落とさなければ、遅くても45歳までには、今後の人生の見通しがなんとなく立つ。
ちなみに、多くの大学で教授の「定年」というものは存在しません。自分で退職したい、と思える年まで勤め続けることとなります。
・・・・・いいなぁ。そりゃあ、研究費の獲得額にあからさまに人生を左右されるとはいえ、とにかく食べていける安心って、すばらしい・・・・・・。もう、転がらなくていいワケなので、心行くまで苔むして生きていけるわけですね。
でも。
米国では、実に多くのPIが転職活動をします。あるひとは本当に転職・転地をめざして。そして、それよりもはるかに多くの人が、今いる場所での自分の地位をより確固としたものとするために。
米国では、大学は長らく公立でも私立でも独立法人として運営されています。業界が同じであるため、給与体系は似てはいるものの、個別にいろいろ違っております。日本と大変違っているのは、既存の決まりごとに縛られるのではなく、場合に応じて交渉の余地が充分あること。本人の実力と交渉しだいでは転職した前後とも両方ともが州立大学だったとしても、(特に別々の州に属する場合に)A大学にいるときよりもB大学に乗り換えた場合のほうがはるかに高い給料と、広い面積の研究室と・・・・・を手に出来る可能性があるわけです。
というわけで、現大学での待遇に疑問を感じたら、転職活動開始。学会の求人欄・総合科学雑誌の求人欄を虎視眈々と日々チェック。これはというところには履歴書・実績リスト・これまでの研究業績とこの後の抱負・教育の実績と抱負を書き上げて、必要ならば推薦者リストを添付して応募。うまくいったら面接に赴き(注:この、『面接』というのが、日本の概念と相当違います。これについては、そのうち)、最終選考で第一候補者として選ばれれば、さて、交渉スタート。
最終選考まではほどほどに腰の低かった「候補者=Candidate」ですが、最終選考で選ばれて交渉がスタートしたとたんに立場逆転です。米国では、一度提示したポジションを、提示した側(B大学)側の都合に基づいて引っ込めたり出来ないことになっています(多くの州でそのような法律がある)。つまり、一度ポジションを提示された時点で、候補者の発言力が断然強くなる。
交渉の内容は、まず、サラリーと床面積。当然両方とも、自分が現在いるA大学での条件を提示し、それより多くを得ることを第一条件とします。場合によっては、自分がB大学に移ることによって必要となる大型機器の購入を依頼。このときの交渉の結果、4,5000万円のお金が動くことになることは珍しくもありません。また、研究に打ち込んでいるPIほど、授業に時間を取られるのを嫌がる傾向が。というわけで、教える授業のコマ数とレベル(大学1年むけがいいとか、大学院向けがいいとか・・・)にいたるまで最初に決めておくことが多いようです。
さらに。
実際に見聞きするまで想像を絶していたのですが、かなりの割合で配偶者の待遇について交渉するケースが見られます。つまり、夫(妻)がB大学からポジションを提示された場合に、A大学で非常勤講師をやっていた妻(夫)をB大学のテニュアトラック助教にしろ、などという形で、配偶者の待遇についてもレベルアップをはかるわけです。大学側は、選考中には候補者の配偶者の有無は聞いてはいけないことが多いので(差別につながりえるから。州によるが、そういう法律があるところがきわめて多い)、候補者に配偶者がいるか否か、あるいはいても何をやっているか、は知りようがない、知ってはいけないことが多い。こういう『切り札』は交渉段階の大詰めで示されたりします。
ちなみに、ここまで強く押せるのは、研究実績が高く、さらに取ってこられる研究費が多いという実績と自信がある場合です。阿漕なまでに研究費の獲得額(直接・間接経費とも)が大学教官の研究能力の大きな要素として勘案される米国ならではの押せ押せ交渉なワケです。
さて、これらB大学から提示された条件をすべて紙に書いて、候補者は自分のA大学に帰ります。そして、学部長、あるいは学長に掛け合って、A大学でB大学と同じ、あるいはそれ以上の待遇を得ようと交渉するわけです。つまり、この候補者は、実はB大学に移る気なんかほぼ、なかったりする。A大学からよりよい条件と認識を得ようという目的で、B大学との交渉を梃子として使っているわけです。で、人によっては、B大学との条件を元に、A大学に自分を引き止めるための条件をはじきださせ、さらにそれをもってもう一度B大学と掛け合う・・・・・。
結果としては、A大学にずっと籍を置いている『見かけはぜんぜん転がらない石』も、実はずいぶん忙しいわけです。
こういうのが、いいのか?といわれると、100%賛成は出来ません。
ただ、高い能力を持ちすばらしい実績を上げる教官と、研究における実績が見られない教官が、ほぼ同じ床面積を研究室として占有し、給料も、年齢によっては後者が高い・・・・という、つまり日本的システムだと、前者に不満がたまるのはもちろん、大学という機関の効率化も図りにくい。
だからといって現在の日本のようにキャリア=実績を重ねた準教授クラスの人材を期限付きの『特任』のポジションにとどめ続けると、彼らのもうひとつの大切な責務である『教育』にしわ寄せが行くのは必至です。
こういう点を考慮すると、ある程度の安定性は約束し、しかし、よりよい待遇に向けてある程度の『交渉の余地』を持たせることは悪いこととは思えない、のです。
英語でもRolling stones never collect mossという表現があって・・・・・というのは、たぶん、大昔に高校の英語に時間あたりに聞いたことがある話だと思いますので、割愛。
今回は、米国での大学教官の転職活動の話です。転職、といっても大学から他の業界に移るのではなく、ある大学から別の大学に移る、という話。
最近日本では、教授を公募することが多い、というハナシを以前にちらりといたしました。大学で働く場合、大概、助教として大学に入り、うまくいけばそのまま、あるいは場所を移って準教授になり、最終的には公募に応募して大概どこか別の場所で教授となる(なれれば、ね)、という、かなりノマドな人生設計、コケもつけないぐらいに転がり続ける形になることを余儀なくされております。
逆に、米国ではPI制をとっているため、助教として研究グループの主宰者として大学に入り、査定に通れば準教授、教授と昇格していきます。この間の昇格の制限となるのは本人の実績だけ。つまり、米国でそこそこ満足が出来る大学でテニュアトラックの助教として職を得て、数年後に査定に通れば、そのまま動かなくても末は教授になって、人生を全うできるしくみになっております。ボールを落とさなければ、遅くても45歳までには、今後の人生の見通しがなんとなく立つ。
ちなみに、多くの大学で教授の「定年」というものは存在しません。自分で退職したい、と思える年まで勤め続けることとなります。
・・・・・いいなぁ。そりゃあ、研究費の獲得額にあからさまに人生を左右されるとはいえ、とにかく食べていける安心って、すばらしい・・・・・・。もう、転がらなくていいワケなので、心行くまで苔むして生きていけるわけですね。
でも。
米国では、実に多くのPIが転職活動をします。あるひとは本当に転職・転地をめざして。そして、それよりもはるかに多くの人が、今いる場所での自分の地位をより確固としたものとするために。
米国では、大学は長らく公立でも私立でも独立法人として運営されています。業界が同じであるため、給与体系は似てはいるものの、個別にいろいろ違っております。日本と大変違っているのは、既存の決まりごとに縛られるのではなく、場合に応じて交渉の余地が充分あること。本人の実力と交渉しだいでは転職した前後とも両方ともが州立大学だったとしても、(特に別々の州に属する場合に)A大学にいるときよりもB大学に乗り換えた場合のほうがはるかに高い給料と、広い面積の研究室と・・・・・を手に出来る可能性があるわけです。
というわけで、現大学での待遇に疑問を感じたら、転職活動開始。学会の求人欄・総合科学雑誌の求人欄を虎視眈々と日々チェック。これはというところには履歴書・実績リスト・これまでの研究業績とこの後の抱負・教育の実績と抱負を書き上げて、必要ならば推薦者リストを添付して応募。うまくいったら面接に赴き(注:この、『面接』というのが、日本の概念と相当違います。これについては、そのうち)、最終選考で第一候補者として選ばれれば、さて、交渉スタート。
最終選考まではほどほどに腰の低かった「候補者=Candidate」ですが、最終選考で選ばれて交渉がスタートしたとたんに立場逆転です。米国では、一度提示したポジションを、提示した側(B大学)側の都合に基づいて引っ込めたり出来ないことになっています(多くの州でそのような法律がある)。つまり、一度ポジションを提示された時点で、候補者の発言力が断然強くなる。
交渉の内容は、まず、サラリーと床面積。当然両方とも、自分が現在いるA大学での条件を提示し、それより多くを得ることを第一条件とします。場合によっては、自分がB大学に移ることによって必要となる大型機器の購入を依頼。このときの交渉の結果、4,5000万円のお金が動くことになることは珍しくもありません。また、研究に打ち込んでいるPIほど、授業に時間を取られるのを嫌がる傾向が。というわけで、教える授業のコマ数とレベル(大学1年むけがいいとか、大学院向けがいいとか・・・)にいたるまで最初に決めておくことが多いようです。
さらに。
実際に見聞きするまで想像を絶していたのですが、かなりの割合で配偶者の待遇について交渉するケースが見られます。つまり、夫(妻)がB大学からポジションを提示された場合に、A大学で非常勤講師をやっていた妻(夫)をB大学のテニュアトラック助教にしろ、などという形で、配偶者の待遇についてもレベルアップをはかるわけです。大学側は、選考中には候補者の配偶者の有無は聞いてはいけないことが多いので(差別につながりえるから。州によるが、そういう法律があるところがきわめて多い)、候補者に配偶者がいるか否か、あるいはいても何をやっているか、は知りようがない、知ってはいけないことが多い。こういう『切り札』は交渉段階の大詰めで示されたりします。
ちなみに、ここまで強く押せるのは、研究実績が高く、さらに取ってこられる研究費が多いという実績と自信がある場合です。阿漕なまでに研究費の獲得額(直接・間接経費とも)が大学教官の研究能力の大きな要素として勘案される米国ならではの押せ押せ交渉なワケです。
さて、これらB大学から提示された条件をすべて紙に書いて、候補者は自分のA大学に帰ります。そして、学部長、あるいは学長に掛け合って、A大学でB大学と同じ、あるいはそれ以上の待遇を得ようと交渉するわけです。つまり、この候補者は、実はB大学に移る気なんかほぼ、なかったりする。A大学からよりよい条件と認識を得ようという目的で、B大学との交渉を梃子として使っているわけです。で、人によっては、B大学との条件を元に、A大学に自分を引き止めるための条件をはじきださせ、さらにそれをもってもう一度B大学と掛け合う・・・・・。
結果としては、A大学にずっと籍を置いている『見かけはぜんぜん転がらない石』も、実はずいぶん忙しいわけです。
こういうのが、いいのか?といわれると、100%賛成は出来ません。
ただ、高い能力を持ちすばらしい実績を上げる教官と、研究における実績が見られない教官が、ほぼ同じ床面積を研究室として占有し、給料も、年齢によっては後者が高い・・・・という、つまり日本的システムだと、前者に不満がたまるのはもちろん、大学という機関の効率化も図りにくい。
だからといって現在の日本のようにキャリア=実績を重ねた準教授クラスの人材を期限付きの『特任』のポジションにとどめ続けると、彼らのもうひとつの大切な責務である『教育』にしわ寄せが行くのは必至です。
こういう点を考慮すると、ある程度の安定性は約束し、しかし、よりよい待遇に向けてある程度の『交渉の余地』を持たせることは悪いこととは思えない、のです。
2013年5月10日金曜日
出羽守バナシ その1:阿漕なのか、なんなのか PartII
さて、米国における研究費に関する話、PartIIです。
最近日本にも導入されましたが、米国には、ながらく「間接経費」という制度があります。たとえば、アメリカのNational Science Foundationというところから、X教授が研究費を4年間で5000万円もらったとします(日本での文科省・科研費に相当)。この5000万円は、X教授が申請したとおりの目的・・・・物品購入・雑費・人件費などなど・・・・・に使われる、つまり研究の『直接経費』ですが、これ以外にX教授が実際には見ることがないお金が動いています。このお金が『間接経費』。額は、X教授が所属する大学が規定するパーセンテージで決まるのですが、だいたい直接経費額の35%から50%。つまり、この場合1650万円から2500万円の『間接経費』が動き・・・・これは、大学に入り、大学の予算の一部として使われます。
考えてみれば、大学というところで研究をするためには、大学というインフラを利用しているわけです。研究室と自分のオフィスの床面積を占有し、水を使い電気を使いガスを使い、建物の掃除には業者さんが入ってくれます(研究室もオフィスも業者さんが合鍵で入って掃除をしてくれます)。建物は長年の間に修繕の必要が出るわけですし、また、美しいキャンパスを維持するには、当然庭師さんが定期的に入ってくれることが必要。・・・・・これらのコストは、もちろん学生さんの払う学費からもまかなわれるわけですが、間接経費は重要な資金源。既存の設備の保守にくわえ、新しい設備を導入したいと思えば、お金はいくらあっても足りない。
というわけで、教官たちの研究費獲得とともに大学に入る間接経費は、大学にとってなくてはならない資金源。逆に言えば、大学は多額の研究資金を間接経費つきで取ってくる教官には経営上の出資元として負うところ多し、なわけです。
となると、研究資金を潤沢に取ってくる能力のある教官は、これを材料として大学に昇給と研究室の床面積拡張を交渉します。ここで、交渉、という余地があるのが米国と日本の大きな違いです。
Assistant Professorのレベルで大学に職を得る若い教官の年収(課税前)は、生物学の分野で、7~800万円程度(うち4分の1は自分で払うわけですが)、割り当て床面積も大体決まっています。・・・・・・しかし、10年から15年も経てば、研究費獲得能力の高い教官と、何とか生き延びている教官の間には、実にわかりやすい差が見られるようになります。研究室の広さ、その中にある設備、そして当然ながらその研究グループから出ている研究実績のレベルをみれば一目瞭然。
・・・・・・だけでなく、年収が2、3倍程度違うのは珍しくもない。結果、運転している車だの、住んでいる家だのにまで違いが出てきます。これは、公立でも私立でも、原則同じ。ただ、私立有名大学では、『やっと生き延びている人』を終身雇用にしないところもありますから、それらの人材を解雇した後に新しい人を入れて、との高度な淘汰の末に生き残った人はすべて優秀、結果のきなみ高収入、ということはありえます。また、所属している学部によって、この勾配が急なところと緩やかなところはあるようです。教官間所得格差のきつさは、私が前にいた大学では、医学・薬学>生命理学>>環境生態学。わかりやすいといえば、大変わかりやすい
(どうやって、そんなこと言い切るんだ?という向きのために、一言説明を。私がいた大学では、毎年、大学から給料を取っている人間すべての給料の額が、ネットに『流出』します。これ、合法的なことで、市民監査NPO的な学生団体(といいつつ、かなり面白半分なのではないかとおもえるのですが)がすっぱ抜く、のです。というわけで、あの教授の給料も、この教授の給料も、みんな知っているんです。これが流出すると、しばらくはお昼の話題はこれ、ですね)。
ちなみに米国の場合、ほとんどの大学では、大学から研究室に降りる交付金というものは存在しません。逆に、大学が間接経費をまるまるもって行くのとは別枠で、直接経費の中から自分が所属する学部に上納金のようなものを納めさせる学部もあります。学部運営のための資金につかうわけです。
というわけで、超・合理的なのか、それとも阿漕なのか。正直言って、私にはどちらともいえないのです。
能力があり、実績を上げ続ける人が報われる。大変結構。
でも。大学、とは教育機関、そこにいる教官は、教育職。教育っていう仕事は、単に『こなせばいい』仕事とは違う。プラスアルファ、いわば、『職業的良心』のようなものが必要不可欠な気がするんです。人間なんて、自分勝手なものだし、自分と家族を守らなければならないし。上記のようなシステムだと、わが身を守るために汲々とするあまり、『教育者としてもっていなければならないプラスアルファ』をどこかに落っことしてしまいがちな気がする。米国で、そういう例を結構な数見た気がする。このシステムを、合理的と評価しつつも同時に『阿漕』と表現する理由はここにあります。
日本も成果重視の方向に来ているようですが、たとえば米国の状態までもって行きたいのかどうか。もって行くのならば、実に多大な覚悟が必要、としか、いいようがありません。
最近日本にも導入されましたが、米国には、ながらく「間接経費」という制度があります。たとえば、アメリカのNational Science Foundationというところから、X教授が研究費を4年間で5000万円もらったとします(日本での文科省・科研費に相当)。この5000万円は、X教授が申請したとおりの目的・・・・物品購入・雑費・人件費などなど・・・・・に使われる、つまり研究の『直接経費』ですが、これ以外にX教授が実際には見ることがないお金が動いています。このお金が『間接経費』。額は、X教授が所属する大学が規定するパーセンテージで決まるのですが、だいたい直接経費額の35%から50%。つまり、この場合1650万円から2500万円の『間接経費』が動き・・・・これは、大学に入り、大学の予算の一部として使われます。
考えてみれば、大学というところで研究をするためには、大学というインフラを利用しているわけです。研究室と自分のオフィスの床面積を占有し、水を使い電気を使いガスを使い、建物の掃除には業者さんが入ってくれます(研究室もオフィスも業者さんが合鍵で入って掃除をしてくれます)。建物は長年の間に修繕の必要が出るわけですし、また、美しいキャンパスを維持するには、当然庭師さんが定期的に入ってくれることが必要。・・・・・これらのコストは、もちろん学生さんの払う学費からもまかなわれるわけですが、間接経費は重要な資金源。既存の設備の保守にくわえ、新しい設備を導入したいと思えば、お金はいくらあっても足りない。
というわけで、教官たちの研究費獲得とともに大学に入る間接経費は、大学にとってなくてはならない資金源。逆に言えば、大学は多額の研究資金を間接経費つきで取ってくる教官には経営上の出資元として負うところ多し、なわけです。
となると、研究資金を潤沢に取ってくる能力のある教官は、これを材料として大学に昇給と研究室の床面積拡張を交渉します。ここで、交渉、という余地があるのが米国と日本の大きな違いです。
Assistant Professorのレベルで大学に職を得る若い教官の年収(課税前)は、生物学の分野で、7~800万円程度(うち4分の1は自分で払うわけですが)、割り当て床面積も大体決まっています。・・・・・・しかし、10年から15年も経てば、研究費獲得能力の高い教官と、何とか生き延びている教官の間には、実にわかりやすい差が見られるようになります。研究室の広さ、その中にある設備、そして当然ながらその研究グループから出ている研究実績のレベルをみれば一目瞭然。
・・・・・・だけでなく、年収が2、3倍程度違うのは珍しくもない。結果、運転している車だの、住んでいる家だのにまで違いが出てきます。これは、公立でも私立でも、原則同じ。ただ、私立有名大学では、『やっと生き延びている人』を終身雇用にしないところもありますから、それらの人材を解雇した後に新しい人を入れて、との高度な淘汰の末に生き残った人はすべて優秀、結果のきなみ高収入、ということはありえます。また、所属している学部によって、この勾配が急なところと緩やかなところはあるようです。教官間所得格差のきつさは、私が前にいた大学では、医学・薬学>生命理学>>環境生態学。わかりやすいといえば、大変わかりやすい
(どうやって、そんなこと言い切るんだ?という向きのために、一言説明を。私がいた大学では、毎年、大学から給料を取っている人間すべての給料の額が、ネットに『流出』します。これ、合法的なことで、市民監査NPO的な学生団体(といいつつ、かなり面白半分なのではないかとおもえるのですが)がすっぱ抜く、のです。というわけで、あの教授の給料も、この教授の給料も、みんな知っているんです。これが流出すると、しばらくはお昼の話題はこれ、ですね)。
ちなみに米国の場合、ほとんどの大学では、大学から研究室に降りる交付金というものは存在しません。逆に、大学が間接経費をまるまるもって行くのとは別枠で、直接経費の中から自分が所属する学部に上納金のようなものを納めさせる学部もあります。学部運営のための資金につかうわけです。
というわけで、超・合理的なのか、それとも阿漕なのか。正直言って、私にはどちらともいえないのです。
能力があり、実績を上げ続ける人が報われる。大変結構。
でも。大学、とは教育機関、そこにいる教官は、教育職。教育っていう仕事は、単に『こなせばいい』仕事とは違う。プラスアルファ、いわば、『職業的良心』のようなものが必要不可欠な気がするんです。人間なんて、自分勝手なものだし、自分と家族を守らなければならないし。上記のようなシステムだと、わが身を守るために汲々とするあまり、『教育者としてもっていなければならないプラスアルファ』をどこかに落っことしてしまいがちな気がする。米国で、そういう例を結構な数見た気がする。このシステムを、合理的と評価しつつも同時に『阿漕』と表現する理由はここにあります。
日本も成果重視の方向に来ているようですが、たとえば米国の状態までもって行きたいのかどうか。もって行くのならば、実に多大な覚悟が必要、としか、いいようがありません。
2013年5月3日金曜日
出羽守バナシ その1:阿漕なのか、なんなのか Part I
昔々、海外に出ることを「洋行」などと呼んでいたころ、海外に行って、日本では見ることのできない風俗の、制度の、人の・・・・・を見てきた人が、コーフンして日本に帰ってきて、ことあるごとに「○○国では」「○○国では」と吹聴するのに辟易した周りの人たちが、その人のことを「では」「では」いう人、という意味で「ではのかみ」と呼んでいた、そうです。
私は、アメリカのニューヨーク州ロングアイランドというところに張り付いて13年近く下働き研究員=ポスドクをしていたのですが、当然ながらこの間、アメリカならでは、な経験をいろいろさせていただきました。びっくりすることたくさん、たぶん嫌なことも多々あった(と思う)のですが、『おかげでいいことに気が付かせてもらった』と思い返せることがとても多いように思います。
私は、アメリカのニューヨーク州ロングアイランドというところに張り付いて13年近く下働き研究員=ポスドクをしていたのですが、当然ながらこの間、アメリカならでは、な経験をいろいろさせていただきました。びっくりすることたくさん、たぶん嫌なことも多々あった(と思う)のですが、『おかげでいいことに気が付かせてもらった』と思い返せることがとても多いように思います。
ならば、研究がらみの『出羽守』バナシをぽつぽつ書いてみようか、というわけで第一話。
研究費がなくちゃ、試薬買えない。機器買えない。実験できない。
このぐらいは、日本にいて学生している時でもおぼろげには理解してはいました。
でも、米国の研究者の、『研究費獲り』に関する目の色の変え方は、かなり衝撃的でした。
それというのも、米国の大学・・・・私立・公立の別なく・・・・での研究者の、プロとしてだけでなく私生活のレベルをも決めてしまうのは、研究費が取れるか否か、にかかっているといって過言ではないから、なんです。
というわけで、阿漕なのかなんなのか、米国アカデミアにおける『カネ』というわかりやすすぎる『標準単位』についてのお話です。
米国の研究費からそのコストがカバーされるものを上げていくと、以下のようになります。
試薬消耗品、理化学機器、旅費、通信費、出版費用、技術補佐員、あるいは研究員人件費
・・・・・・ここまでは、日本の研究費でもカバーされていますが、違いはこれ以降。
大学院生人件費・学費、そして、教官(米国式で言えばPrincipal Investivator, PI)の『夏季給与』。
最近、日本でも、大学院生が研究室で研究をする時間にResearch Assistant=RAと認識して人件費を支払う、という動きがありますが、アメリカではこれが定着しており、指導教官は大学院生人件費にくわえて大学に大学院生の学費を研究費から支払っています(例外もいますが、私がいた州立大学の某学部では、払われていない学生さんは10%未満でした)。この額は、州立大学の場合でだいたい年に300万円相当ぐらいだと思います。つまり、大学院生が研究室にいれば、一人当たり300万円の費用は絶対に必要、なわけです。
大学によっては、学費が高すぎて、学生さんを『雇う』よりもポスドク=博士号をもった研究員を雇った方が安い、ということがあり得ます。ポスドクは人件費部分は少々高くても、学費部分がゼロなためです。とはいえ、大学=教育機関、学生さんに教育の場を提供するための機関です。当然ながら、大学に教官として着任してから、自分の指導の下に何人の大学院生が学位をとったか、という点は、大学教官としての能力の査定の重要な一項目。Assistant Professor(日本で言う助教)で着任して、Associate(準教授), Full Professor(教授)と昇格していくためには、この項目で一定以上の能力を示すことが必要不可欠です。つまり、大学教官としての責務に忠実に、よき教育者でいようとすると、結局は研究費が要る。研究の進展のためにも、ラボには大学院生が常に何名かいてくれるほうが、いいに決まっています。というわけで、研究費を取ってくる甲斐性がなければ、研究の進展とともに自身の教育者としての身分が危うくなるのです。
と、ここまででも、『シビア・・・・』という感じですが、もっとシビアなのは、PI自身の『夏季給与』。
私が知っている限りでは、現在すべての米国の公立大学で、教官は「9か月分」の給料を払われています。米国の場合、大学というところは、2ヶ月程度の夏季休暇があり、春も冬も10日から2週間ぐらいの休みがあります。つまり、考えてみればProfessorたちが大学で教官として働いているのは9ヶ月程度。
・・・・・というわけで、大学は教官の年収の75%を出してくれます。あとの25%は、自分の研究費から補填するわけです。(ほとんどの大学では夏季の集中講義がありますが、これを教えればその分のお給料は時給でもらえます。着任したばかりの若い教官が、こういう授業を持つのはよくあります。ただし、これでは年間給与の25%にははるかに届きません。実際に教室にいる時間に対する時給ですからね。授業をするには、当然その準備が必要。初めて授業を教える教官だと、準備にかかる時間まで計算に入れると、時給換算ではファーストフードチェーンでアルバイトする高校生よりも安いかも。)
つまり、研究費が取れなければ自分の年収が一気に25%減ることになります。
米国と日本の公的研究費の支給額は、一般的なもので5倍から10倍ぐらいまでは軽く違うのですが、その大きな理由のひとつに、これら日本では計算に入ってこないタイプの人件費が上げられます。逆に言えば、アメリカでは、伝統的に上記のような人件費が組み込まれているので、応募申請にさえ通れば大きい額の研究費がおりやすい。やれやれ、タスカッタ。
・・・・・・でも、その一方の競争率。
分野にもよりますが、私がいたころの米国では、公的研究資金の競争率は4倍から12倍程度だったと思います。少なくとも4分の3の申請者は夏季給与ナシの危険にさらされるわけです(とはいえ、どの人も複数の研究費に応募するので、あまりこういう実例は聞きませんでした。というよりも、生活を守るために皆が取れるまで必死に応募し続けるから、現実としてあぶれる実例はすくない、ということでしょうね。)
研究費の申請書のページ数は、ほぼA4サイズの用紙に、現在は16ページまでかな?長いんです(日本の科研費は、個人で出す場合は5ページまで)。応募のチャンスは、ありがたいことに(?)年に数回。・・・・・これを専業で書くのだって結構大変。で、これを書き続けながら一方では、研究を進め(大学院生の指導をし、論文を書くあるいは推敲し、実験室で問題が起こればトラブルシューティングし、うんぬん)研究室を経営するための書類作成などの雑務もあるし、大学にかかわる業務も入り、授業だの実習だのも教え、学会にも出たいし、自分の読み物をする時間も必要だし・・・・・・。
で、一方では給料の4分の1が削られる危険には常にさらされている・・・・・。
そんな人生、楽しいわけ?
・・・・・・・・楽しいんだと思います。
そして、米国でのこの人生には、実は『カネがらみのご褒美』が存在します。そう、この話、まだ半分しか終わっておりません。
というわけで、続きはまた来週。
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
米国にいる間に、研究という仕事について、いつのまにか刷り込まれたことはたくさんありますが、その筆頭として私の頭に浮かぶのは、「研究費を取ってくる重要性」についての認識です。研究費がなくちゃ、試薬買えない。機器買えない。実験できない。
このぐらいは、日本にいて学生している時でもおぼろげには理解してはいました。
でも、米国の研究者の、『研究費獲り』に関する目の色の変え方は、かなり衝撃的でした。
それというのも、米国の大学・・・・私立・公立の別なく・・・・での研究者の、プロとしてだけでなく私生活のレベルをも決めてしまうのは、研究費が取れるか否か、にかかっているといって過言ではないから、なんです。
というわけで、阿漕なのかなんなのか、米国アカデミアにおける『カネ』というわかりやすすぎる『標準単位』についてのお話です。
米国の研究費からそのコストがカバーされるものを上げていくと、以下のようになります。
試薬消耗品、理化学機器、旅費、通信費、出版費用、技術補佐員、あるいは研究員人件費
・・・・・・ここまでは、日本の研究費でもカバーされていますが、違いはこれ以降。
大学院生人件費・学費、そして、教官(米国式で言えばPrincipal Investivator, PI)の『夏季給与』。
最近、日本でも、大学院生が研究室で研究をする時間にResearch Assistant=RAと認識して人件費を支払う、という動きがありますが、アメリカではこれが定着しており、指導教官は大学院生人件費にくわえて大学に大学院生の学費を研究費から支払っています(例外もいますが、私がいた州立大学の某学部では、払われていない学生さんは10%未満でした)。この額は、州立大学の場合でだいたい年に300万円相当ぐらいだと思います。つまり、大学院生が研究室にいれば、一人当たり300万円の費用は絶対に必要、なわけです。
大学によっては、学費が高すぎて、学生さんを『雇う』よりもポスドク=博士号をもった研究員を雇った方が安い、ということがあり得ます。ポスドクは人件費部分は少々高くても、学費部分がゼロなためです。とはいえ、大学=教育機関、学生さんに教育の場を提供するための機関です。当然ながら、大学に教官として着任してから、自分の指導の下に何人の大学院生が学位をとったか、という点は、大学教官としての能力の査定の重要な一項目。Assistant Professor(日本で言う助教)で着任して、Associate(準教授), Full Professor(教授)と昇格していくためには、この項目で一定以上の能力を示すことが必要不可欠です。つまり、大学教官としての責務に忠実に、よき教育者でいようとすると、結局は研究費が要る。研究の進展のためにも、ラボには大学院生が常に何名かいてくれるほうが、いいに決まっています。というわけで、研究費を取ってくる甲斐性がなければ、研究の進展とともに自身の教育者としての身分が危うくなるのです。
と、ここまででも、『シビア・・・・』という感じですが、もっとシビアなのは、PI自身の『夏季給与』。
私が知っている限りでは、現在すべての米国の公立大学で、教官は「9か月分」の給料を払われています。米国の場合、大学というところは、2ヶ月程度の夏季休暇があり、春も冬も10日から2週間ぐらいの休みがあります。つまり、考えてみればProfessorたちが大学で教官として働いているのは9ヶ月程度。
・・・・・というわけで、大学は教官の年収の75%を出してくれます。あとの25%は、自分の研究費から補填するわけです。(ほとんどの大学では夏季の集中講義がありますが、これを教えればその分のお給料は時給でもらえます。着任したばかりの若い教官が、こういう授業を持つのはよくあります。ただし、これでは年間給与の25%にははるかに届きません。実際に教室にいる時間に対する時給ですからね。授業をするには、当然その準備が必要。初めて授業を教える教官だと、準備にかかる時間まで計算に入れると、時給換算ではファーストフードチェーンでアルバイトする高校生よりも安いかも。)
つまり、研究費が取れなければ自分の年収が一気に25%減ることになります。
米国と日本の公的研究費の支給額は、一般的なもので5倍から10倍ぐらいまでは軽く違うのですが、その大きな理由のひとつに、これら日本では計算に入ってこないタイプの人件費が上げられます。逆に言えば、アメリカでは、伝統的に上記のような人件費が組み込まれているので、応募申請にさえ通れば大きい額の研究費がおりやすい。やれやれ、タスカッタ。
・・・・・・でも、その一方の競争率。
分野にもよりますが、私がいたころの米国では、公的研究資金の競争率は4倍から12倍程度だったと思います。少なくとも4分の3の申請者は夏季給与ナシの危険にさらされるわけです(とはいえ、どの人も複数の研究費に応募するので、あまりこういう実例は聞きませんでした。というよりも、生活を守るために皆が取れるまで必死に応募し続けるから、現実としてあぶれる実例はすくない、ということでしょうね。)
研究費の申請書のページ数は、ほぼA4サイズの用紙に、現在は16ページまでかな?長いんです(日本の科研費は、個人で出す場合は5ページまで)。応募のチャンスは、ありがたいことに(?)年に数回。・・・・・これを専業で書くのだって結構大変。で、これを書き続けながら一方では、研究を進め(大学院生の指導をし、論文を書くあるいは推敲し、実験室で問題が起こればトラブルシューティングし、うんぬん)研究室を経営するための書類作成などの雑務もあるし、大学にかかわる業務も入り、授業だの実習だのも教え、学会にも出たいし、自分の読み物をする時間も必要だし・・・・・・。
で、一方では給料の4分の1が削られる危険には常にさらされている・・・・・。
そんな人生、楽しいわけ?
・・・・・・・・楽しいんだと思います。
そして、米国でのこの人生には、実は『カネがらみのご褒美』が存在します。そう、この話、まだ半分しか終わっておりません。
というわけで、続きはまた来週。
登録:
投稿 (Atom)