2013年7月5日金曜日

出羽守バナシ その2:転がる石・転がらない石

 転がる石にコケはつかない。
 英語でもRolling stones never collect mossという表現があって・・・・・というのは、たぶん、大昔に高校の英語に時間あたりに聞いたことがある話だと思いますので、割愛。

 今回は、米国での大学教官の転職活動の話です。転職、といっても大学から他の業界に移るのではなく、ある大学から別の大学に移る、という話。

 最近日本では、教授を公募することが多い、というハナシを以前にちらりといたしました。大学で働く場合、大概、助教として大学に入り、うまくいけばそのまま、あるいは場所を移って準教授になり、最終的には公募に応募して大概どこか別の場所で教授となる(なれれば、ね)、という、かなりノマドな人生設計、コケもつけないぐらいに転がり続ける形になることを余儀なくされております。

 逆に、米国ではPI制をとっているため、助教として研究グループの主宰者として大学に入り、査定に通れば準教授、教授と昇格していきます。この間の昇格の制限となるのは本人の実績だけ。つまり、米国でそこそこ満足が出来る大学でテニュアトラックの助教として職を得て、数年後に査定に通れば、そのまま動かなくても末は教授になって、人生を全うできるしくみになっております。ボールを落とさなければ、遅くても45歳までには、今後の人生の見通しがなんとなく立つ。
 ちなみに、多くの大学で教授の「定年」というものは存在しません。自分で退職したい、と思える年まで勤め続けることとなります。
 ・・・・・いいなぁ。そりゃあ、研究費の獲得額にあからさまに人生を左右されるとはいえ、とにかく食べていける安心って、すばらしい・・・・・・。もう、転がらなくていいワケなので、心行くまで苔むして生きていけるわけですね。

 でも。
 米国では、実に多くのPIが転職活動をします。あるひとは本当に転職・転地をめざして。そして、それよりもはるかに多くの人が、今いる場所での自分の地位をより確固としたものとするために。
 
 米国では、大学は長らく公立でも私立でも独立法人として運営されています。業界が同じであるため、給与体系は似てはいるものの、個別にいろいろ違っております。日本と大変違っているのは、既存の決まりごとに縛られるのではなく、場合に応じて交渉の余地が充分あること。本人の実力と交渉しだいでは転職した前後とも両方ともが州立大学だったとしても、(特に別々の州に属する場合に)A大学にいるときよりもB大学に乗り換えた場合のほうがはるかに高い給料と、広い面積の研究室と・・・・・を手に出来る可能性があるわけです。

 というわけで、現大学での待遇に疑問を感じたら、転職活動開始。学会の求人欄・総合科学雑誌の求人欄を虎視眈々と日々チェック。これはというところには履歴書・実績リスト・これまでの研究業績とこの後の抱負・教育の実績と抱負を書き上げて、必要ならば推薦者リストを添付して応募。うまくいったら面接に赴き(注:この、『面接』というのが、日本の概念と相当違います。これについては、そのうち)、最終選考で第一候補者として選ばれれば、さて、交渉スタート。
 
 最終選考まではほどほどに腰の低かった「候補者=Candidate」ですが、最終選考で選ばれて交渉がスタートしたとたんに立場逆転です。米国では、一度提示したポジションを、提示した側(B大学)側の都合に基づいて引っ込めたり出来ないことになっています(多くの州でそのような法律がある)。つまり、一度ポジションを提示された時点で、候補者の発言力が断然強くなる。

 交渉の内容は、まず、サラリーと床面積。当然両方とも、自分が現在いるA大学での条件を提示し、それより多くを得ることを第一条件とします。場合によっては、自分がB大学に移ることによって必要となる大型機器の購入を依頼。このときの交渉の結果、4,5000万円のお金が動くことになることは珍しくもありません。また、研究に打ち込んでいるPIほど、授業に時間を取られるのを嫌がる傾向が。というわけで、教える授業のコマ数とレベル(大学1年むけがいいとか、大学院向けがいいとか・・・)にいたるまで最初に決めておくことが多いようです。

 さらに。

 実際に見聞きするまで想像を絶していたのですが、かなりの割合で配偶者の待遇について交渉するケースが見られます。つまり、夫(妻)がB大学からポジションを提示された場合に、A大学で非常勤講師をやっていた妻(夫)をB大学のテニュアトラック助教にしろ、などという形で、配偶者の待遇についてもレベルアップをはかるわけです。大学側は、選考中には候補者の配偶者の有無は聞いてはいけないことが多いので(差別につながりえるから。州によるが、そういう法律があるところがきわめて多い)、候補者に配偶者がいるか否か、あるいはいても何をやっているか、は知りようがない、知ってはいけないことが多い。こういう『切り札』は交渉段階の大詰めで示されたりします。

 ちなみに、ここまで強く押せるのは、研究実績が高く、さらに取ってこられる研究費が多いという実績と自信がある場合です。阿漕なまでに研究費の獲得額(直接・間接経費とも)が大学教官の研究能力の大きな要素として勘案される米国ならではの押せ押せ交渉なワケです。

 さて、これらB大学から提示された条件をすべて紙に書いて、候補者は自分のA大学に帰ります。そして、学部長、あるいは学長に掛け合って、A大学でB大学と同じ、あるいはそれ以上の待遇を得ようと交渉するわけです。つまり、この候補者は、実はB大学に移る気なんかほぼ、なかったりする。A大学からよりよい条件と認識を得ようという目的で、B大学との交渉を梃子として使っているわけです。で、人によっては、B大学との条件を元に、A大学に自分を引き止めるための条件をはじきださせ、さらにそれをもってもう一度B大学と掛け合う・・・・・。
 結果としては、A大学にずっと籍を置いている『見かけはぜんぜん転がらない石』も、実はずいぶん忙しいわけです。

 こういうのが、いいのか?といわれると、100%賛成は出来ません。
 ただ、高い能力を持ちすばらしい実績を上げる教官と、研究における実績が見られない教官が、ほぼ同じ床面積を研究室として占有し、給料も、年齢によっては後者が高い・・・・という、つまり日本的システムだと、前者に不満がたまるのはもちろん、大学という機関の効率化も図りにくい。
 だからといって現在の日本のようにキャリア=実績を重ねた準教授クラスの人材を期限付きの『特任』のポジションにとどめ続けると、彼らのもうひとつの大切な責務である『教育』にしわ寄せが行くのは必至です。

 こういう点を考慮すると、ある程度の安定性は約束し、しかし、よりよい待遇に向けてある程度の『交渉の余地』を持たせることは悪いこととは思えない、のです。

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