2013年5月10日金曜日

出羽守バナシ その1:阿漕なのか、なんなのか PartII

 さて、米国における研究費に関する話、PartIIです。

 最近日本にも導入されましたが、米国には、ながらく「間接経費」という制度があります。たとえば、アメリカのNational Science Foundationというところから、X教授が研究費を4年間で5000万円もらったとします(日本での文科省・科研費に相当)。この5000万円は、X教授が申請したとおりの目的・・・・物品購入・雑費・人件費などなど・・・・・に使われる、つまり研究の『直接経費』ですが、これ以外にX教授が実際には見ることがないお金が動いています。このお金が『間接経費』。額は、X教授が所属する大学が規定するパーセンテージで決まるのですが、だいたい直接経費額の35%から50%。つまり、この場合1650万円から2500万円の『間接経費』が動き・・・・これは、大学に入り、大学の予算の一部として使われます。

 考えてみれば、大学というところで研究をするためには、大学というインフラを利用しているわけです。研究室と自分のオフィスの床面積を占有し、水を使い電気を使いガスを使い、建物の掃除には業者さんが入ってくれます(研究室もオフィスも業者さんが合鍵で入って掃除をしてくれます)。建物は長年の間に修繕の必要が出るわけですし、また、美しいキャンパスを維持するには、当然庭師さんが定期的に入ってくれることが必要。・・・・・これらのコストは、もちろん学生さんの払う学費からもまかなわれるわけですが、間接経費は重要な資金源。既存の設備の保守にくわえ、新しい設備を導入したいと思えば、お金はいくらあっても足りない。
 というわけで、教官たちの研究費獲得とともに大学に入る間接経費は、大学にとってなくてはならない資金源。逆に言えば、大学は多額の研究資金を間接経費つきで取ってくる教官には経営上の出資元として負うところ多し、なわけです。

 となると、研究資金を潤沢に取ってくる能力のある教官は、これを材料として大学に昇給と研究室の床面積拡張を交渉します。ここで、交渉、という余地があるのが米国と日本の大きな違いです。
 Assistant Professorのレベルで大学に職を得る若い教官の年収(課税前)は、生物学の分野で、7~800万円程度(うち4分の1は自分で払うわけですが)、割り当て床面積も大体決まっています。・・・・・・しかし、10年から15年も経てば、研究費獲得能力の高い教官と、何とか生き延びている教官の間には、実にわかりやすい差が見られるようになります。研究室の広さ、その中にある設備、そして当然ながらその研究グループから出ている研究実績のレベルをみれば一目瞭然。

・・・・・・だけでなく、年収が2、3倍程度違うのは珍しくもない。結果、運転している車だの、住んでいる家だのにまで違いが出てきます。これは、公立でも私立でも、原則同じ。ただ、私立有名大学では、『やっと生き延びている人』を終身雇用にしないところもありますから、それらの人材を解雇した後に新しい人を入れて、との高度な淘汰の末に生き残った人はすべて優秀、結果のきなみ高収入、ということはありえます。また、所属している学部によって、この勾配が急なところと緩やかなところはあるようです。教官間所得格差のきつさは、私が前にいた大学では、医学・薬学>生命理学>>環境生態学。わかりやすいといえば、大変わかりやすい
(どうやって、そんなこと言い切るんだ?という向きのために、一言説明を。私がいた大学では、毎年、大学から給料を取っている人間すべての給料の額が、ネットに『流出』します。これ、合法的なことで、市民監査NPO的な学生団体(といいつつ、かなり面白半分なのではないかとおもえるのですが)がすっぱ抜く、のです。というわけで、あの教授の給料も、この教授の給料も、みんな知っているんです。これが流出すると、しばらくはお昼の話題はこれ、ですね)。

 ちなみに米国の場合、ほとんどの大学では、大学から研究室に降りる交付金というものは存在しません。逆に、大学が間接経費をまるまるもって行くのとは別枠で、直接経費の中から自分が所属する学部に上納金のようなものを納めさせる学部もあります。学部運営のための資金につかうわけです。

 というわけで、超・合理的なのか、それとも阿漕なのか。正直言って、私にはどちらともいえないのです。

 能力があり、実績を上げ続ける人が報われる。大変結構。

 でも。大学、とは教育機関、そこにいる教官は、教育職。教育っていう仕事は、単に『こなせばいい』仕事とは違う。プラスアルファ、いわば、『職業的良心』のようなものが必要不可欠な気がするんです。人間なんて、自分勝手なものだし、自分と家族を守らなければならないし。上記のようなシステムだと、わが身を守るために汲々とするあまり、『教育者としてもっていなければならないプラスアルファ』をどこかに落っことしてしまいがちな気がする。米国で、そういう例を結構な数見た気がする。このシステムを、合理的と評価しつつも同時に『阿漕』と表現する理由はここにあります。

 日本も成果重視の方向に来ているようですが、たとえば米国の状態までもって行きたいのかどうか。もって行くのならば、実に多大な覚悟が必要、としか、いいようがありません。

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