2013年3月15日金曜日

大学勤務といってもいろいろ・・・・・

 で、先週の続きです。
 
 昔むかしは、博士が少なかった。大学にいって、大学院にいって、博士を取ったらその研究室か、空きがなければ紹介してもらった別大学の研究室の助手(助教)になって、しばらくいたら、教授がご退官、今までの助教授(準教授)が教授になって、助手だった自分は助教授になって・・・・・というのが結構な割合でみられました。
・・・・しか~し。今みたいに、みんなが博士を取り始めると、どうもそうは行かなくなった。「みんな博士を取るようになった」とともに『博士の質の平均』が下がってきた、という議論もありますが、一方で絶対数の増加はとりもなおさずポスドク数の増加、そして「博士向けの仕事クチ」取り合い競争の激化を招いたといえます。

 ポスドクたちがそこからもう少し先に踏み出そうとしたときには、公募されているポジションの数からいって、結局は大学教官のクチというのがたぶん一番応募しやすい『職』だと私めは思っているのですが、実は、きょうび、一口に大学教官といってもいろいろあります。

 最近増えてきたものに、特任、というポストがあります。特任助教、特任準教授、特任教授。この、『特任』なるポストは、終身ではなく、時限つき、例えば5年後にはそのポスト自体がなくなるというポストです。似たようなものに、『テニュアトラック』というものがあります。テニュア=終身雇用契約、トラック=軌道。日本語にぴったりの表現がないのですが、テニュアトラックというのは、(一定の審査にパスすれば)終身雇用契約を結んでもらえるという約束での採用、つまり、終身雇用に変換する可能性を大いに含んだ時限つきポスト。テニュアトラック、のほうが、終身雇用を結んでもらえる可能性があるとはっきりわかっている分、相当心強いといえます(呼称については、テニュアトラックを特任と呼ぶ大学もありますので、これには個別に確認が必要)。

 となると、特任とポスドクとの違いは?一般的にいって、ポスドクは、上にボスのいる雇われ研究員なわけですが、特任、がついても大学教官であれば、一応自分が研究機関と直接雇用契約を結んでいる形になる事が多いです。勢い、ポスドクになるよりも競争率が高い場合が多く、周りの認識も高めになります。また、大学院生時代によっぽどの実績を上げた瞠目すべき人材を除いては、ポスドク経験は最低限の必要条件との感があり、だから特任であっても助教のポジションは、ポスドクよりも進んだ身分、といっていいでしょう。もちろん、特任助教よりも特任準教授がステイタスもお給料も高く、特任教授はもっと高い(特任教授、というのは、実は他大学を定年退官した有名教授が、リタイア後の仕事としてついている場合も多く、そういう意味で、特任準教授だの特任助教だのとは一線を画すといえます)。
 最近は、とくに助教はどこも『特任』=5年程度の時限つきで募集することが多く、逆に言えば、テニュアトラック、あるいは終身雇用の助教のポストをみつけたらめっけものなわけです。

 ながくなりましたが、若手研究者がポスドクから一歩ふみだそう、と思うとき、このXX助教の公募に応募するわけですが、この競争の倍率が、結構高い。研究分野を限局した場合でも10名内外の応募があるのはふつうですし、研究分野を比較的広くとった場合、30人以上の応募があることもある、らしい。これらの競争率の高さは、有名大学だから、というわけではなく、軒並みこのぐらいであるところが怖いところです。
 ほとんど日本に特有の現象である、『出来レース』=公募を装って、実は採用したい人材はしっかり決まっており、いわばアリバイ作りのためだけに広告を出してある求人、というものが今でも一定の割合で存在することも考慮すると、ポジションを得ることは、ま、どう控えめに表現しても狭き門なわけです。

 私自身、このポスドク→助教移行にずいぶん長い期間かかっているわけですが、この間によく聞いた言い回しがあります。いわく、There is only one difference between ones who get tenure-track positions and the others; giving up or not.=テニュアトラックのポジションを取る人間ととらない人間の間にはたった一つの違いしかない。あきらめるか、あきらめないかだ。(米国では、伝統的に終身雇用のポジションを手にするためにはテニュアトラックのポジションを得るしかなく、結果テニュアトラックに対する認識が非常に高いことからも、こういう表現が生まれたわけです)

 私が見てきた限り、これ、確かに真実ではありました。
・・・・・・しかし、たとえば、競争率が低い場合でも5分の1、高い場合で30分の1なんていう競争にわが身をさらして(そして、競争相手はすべて『一般的な日本人』ではなくて、『少なくとも博士号はなんとかとった人間』なわけですが)、あたりを引き当てるまであきらめない、という人生の時間の使い方を、果たして自分はしたいのか?

 これについては、じ~っくり考えてみることも必要だと思います。

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