2013年5月31日金曜日

文化の違い

 私が岡山大学資源植物科学研究所に着任して、1年9か月がたとうとしていますが、この間に、結構なカルチャーショックを受けました。
 カルチャーショックといっても、たとえば住む国の文化の違いからくるものではなく、『理学・農学』間、つまり同じ『理系』の分野ではあっても、専門分野間の気質の違いからくるものです。
 そもそも、この研究所は『大原農業研究所』という前身から発展してできたもの。今でも、研究所の目玉は近代的な農学研究、と認識されており、体質としては大変農学より。教員の出身学部を見ても、農学部が圧倒的に多いといえます。

ひるがえって、私自身は理学部出身。研究をするようになってから一番長く所属したニューヨーク州立大学の学部名も、Dept. Biochemistry & Cell Biology=生化学・細胞生物学部、ということで、これは理学部生物学科にあたります。生物学のうちでも、分子生物学ですので、ある分子がある生物の細胞内でどういう役割を担っているか、ということをつぶさに調べる、といったタイプの仕事ばかりやってきたわけです。博士を持っている研究員であれば、一人一人が独立のテーマに取り組むのがふつう。自分の頭で考えて、自分の手を使って、もちろん、技術補助員さんやボスとの共同作業・共同思考はありえても、かなり個人プレーになりがちなタイプの仕事ばかりやってきた感じ。そして、研究という仕事は、そういうもの、と思い込んでまいりました。

 理学だろうが農学だろうが、最近の研究であれば、ある現象に着目してメカニズムを理解しようとすれば、たどりつくのは機能性分子と遺伝子。使う材料が理学ならばモデル植物、農学ならば作物となる植物、という点がたった一つの違いでしょ?とおもいこんでいたのですが。
 理学的アプローチならば、たとえばシロイヌナズナを温室、あるいは人工気象室で育てて実験します。つまり一年中同じような状態で生活環の短い植物を延々と栽培しつつ実験を繰り返すわけです。でも、作物となる植物を材料として使う、ということは、当然ながら、その植物を「作物として育てるセッティングで」育てることになるのですね。農学的アプローチをとる場合には、多くの場合圃場・・・つまり、田んぼと畑・・・・・で「実験植物」を栽培するのです。おてんとうさまに頼った栽培方法なわけで、となると、育てる作物によって一年に数回忙しい時期が出てくる。そう、研究所に「農繁期」があるのです。

 この研究所はイネとオオムギを扱っている人が多くて、だからイネとオオムギの生育に合わせてみんなが動く。農繁期になると、朝、9時ぐらいから、研究グループ総出で収穫を始め、お昼になると皆が一斉にお昼ご飯を取り、昼休み後にまた一斉に出てきて作業開始!というスタイルは、人工気象室でプラスチックの鉢に市販の培養土のミックスをいれてナズナを栽培する、というのとはまったく異なるものです。
 理学的アプローチはひとりでちまちまこつこつ、という感じですが、農学的アプローチは、みんなで一斉に並んで作業をする。当然といえば当然なのでしょうが、私にとっては、かなりの驚きでした。
 そして、多くの作物について、栽培サイクルは年1回。となると、研究にかかる時間も非常にながくなります。おいそれと、あ、失敗した、また最初から、とするわけには行きません。

 現在は、秋~冬にまいたオオムギの収穫シーズン。今年は寒い期間が長くて実りが遅かった上に梅雨入りが異常に早く、実った大麦が雨に打たれてしまうと、オオムギグループの人々は気が気ではないようでした。
 そして、収穫が終われば、今度は田植えのシーズン。
 私自身は、ヘテロシグマの培養に明け暮れる毎日なのですが、窓から毎日所員が圃場で働いているのを見ながら、今更ながら、本当にいろいろな研究分野があるのだなぁ、と実感する毎日です。

 
 

2013年5月24日金曜日

やってみるまでわからなかった!

 なんでも、自分が手を染めてみて初めて分かること、というのがあります。

 最近つくづく感じいることが多いのが、初めて触る生物を使って仕事をするむずかしさ・面白さ。

 私は、大学院生時代は哺乳類の培養細胞系を、その後ポスドクとして植物を使いはじめてからはモデル植物であるシロイヌナズナと、ゲノムこそ読まれていないものの、たくさんの人が使っているタバコとベンサミアナという植物を使って研究してきました。
 培養細胞は、もともとは哺乳類の組織からとってきて、さまざまな経緯で『不死化』『株化』された細胞がほとんど。培養するには、市販の培地を使い、決まった条件で世話をし続ければ、まず間違いなくちゃんと生育します。重要なのは、培養細胞として株化されたものであれば、シャーレに生えている細胞はまずその一種類とわかっていること。自分で間違いを起こさない限り、知らないものが混じっていた…というようなことは、まぁ、ありません。その単純明快さゆえに、世界中の研究室で使われているわけですよね。
 シロイヌナズナも、タバコも同じ。これは種子として保存して、それを発芽させて育てて実験するわけで、自分が取り組んでいるのはその植物自身と確信をもって実験しているわけです。

 なんていうことをいまさらながら考えるのは、ヘテロシグマという、分子生物学者がこれまで触ったことがほとんどない生物を相手にしていたから。一年以上世話していて、最近「共生微生物」の重要性に気が付いてしまいました。
 そもそも、私が1年以上前にほかの研究所から分けて戴いたヘテロシグマは、もう20年近く前に採取した海水から単離されたものを、実験室で培養していたもの。ヘテロシグマに「共生微生物」がいる、という話は知られてはいるのですが、一応、これを取り除いたということになっている株をいただいてきたのです。その後、滅菌した人工海水を用いて培養しているわけですし、実験室に持ち込んで、『無菌的』に継代してきたものなワケですし、私の認識では、これは、『確立された純正株』。「ヘテロシグマ培養液」の中にいるのは、自分が何かを混ぜてしまわない限り、ヘテロシグマだけだろう、と思ってしまうのが、私のように『確立された実験生物』を使って仕事をした経験しかもたない者の習性です。

 しかししかし。
 最近、同じ研究所の微生物を専門とする研究者にいろいろ教えてもらってわかってきたこと。
私がもらってきた、「純粋なヘテロシグマ」は、全然純粋ではありませんでした。どうもいくつかの共生微生物がいるようなのです。これらは思っていたよりもはるかに緊密な共生関係をヘテロシグマと結び、相当強引な操作をして無理やりひっぺがさないかぎり、ヘテロシグマあるところにこれらの微生物アリ。
 しかも、これらの共生微生物は、ヘテロシグマの増殖を助けたり邪魔したり、いろんなことをしている気配が・・・・・。

 となると、やはり、「すべての共生微生物を洗い流した純粋なヘテロシグマ」がほしくなります。
 というわけで、最近は、この、純粋ヘテロシグマの確立=共生微生物を無理やり引っぺがすための操作に力を入れています。

 そして、当然、ヘテロシグマにくっついている方のこれら共生微生物だって単離したい。
 でも、そもそも、『純粋培養』系しか相手にしたことのない私が、いきなりなんだかわからない微生物を単離したい、とおもっても、どこから手をつけていいかわかりません。
 というわけで、自分のラボで育てたヘテロシグマも持って階下のグループに助けを求めにいきました。微生物のエキスパートの彼らにいろいろ教えていただいて、これまで考えても見なかった方向に仕事が展開していっています。デキる同僚・グループがすぐそこにいてくれて、親切にいろいろ教えてもらえるのは、なににもましてとありがたいことです。

 それにしても。
 こういうことがわかると、今度は、これまでに発表されているヘテロシグマに関する研究結果すべてについて、「これは純粋なヘテロシグマの生態なのか、はたまた共生菌といっしょにいる場合の生態なのか」という疑問が生まれてきます。
 たとえば、私が興味を持っているヘテロシグマとウイルスの関係。いままで、「ヘテロシグマとウイルスの関係」を見ているつもりだったのが、実は「ヘテロシグマとウイルスと、いくつかの共生菌の関係の総和」をみていた、ということもありえるわけで。
 これまで読んで理解してきたと思っていたいろいろな論文も、注意深く再検討する必要がありそうです。

 

2013年5月17日金曜日

ケチってはいけない話

 GWは、実験三昧でした。
 というのも、例のヘテロシグマからRNAを取りたかったから。
 ヘテロシグマの遺伝子発現の制御について研究したいのですが、遺伝子発現=DNAが『発現』するには、DNAが、まずRNAに『転写』されて、それが最終的には遺伝子がコードしているたんぱく質として発現される、という段階を踏みます。
 DNAは、以前にも書いた通りにいわば細胞の設計図。たとえば、どんなタイミングでどんな遺伝子をどのぐらいタンパク質として作りたいか、という情報が書き込まれているのですが、この情報から、作りたいタンパク質の配列と大雑把な量という情報を、いわば『抽出』したものがmRNAという分子。どんな状態で育った細胞のなかで、どんなタンパク質をコードするmRNAがどのぐらいの量で合成されているのかは、細胞の仕組みを理解するのに有益な情報なわけです。

 で、このmRNAをとってくるには、まず、細胞が持っているmRNAを含むすべてのRNA分子を抽出して、その中からmRNAだけを取ってくればいい。
 ヒトからもマウスからもナズナからもトマトからもタバコからも簡単にとってこれるRNA。ヘテロシグマからだって簡単なはず・・・・・なのですが、新しい種を使っての実験は、常に多少の試行錯誤が必要なもので。

 ・・・・・多少試行錯誤しているうちに、ゴールデンウィークが終わってしまいました。

 実はこの実験、締め切りがあったるんです。5月中旬までに、何が何でも純度の高い、質の良いRNAをいろんな条件で育てたヘテロシグマから集めなければならなかった。外注で実験をしてもらうための材料で、キャンペーン価格(20万円引き!)が5月中旬申し込み分まで、だったんです。
 焦って実験してもなかなか決定打!な方法にはいきつかず、とうとう、しびれを切らして市販の「キット」を使うことに。
 お値段も高めだし、そもそも、これがヘテロシグマにあっているかどうかは不明です。一番小さい箱でも10セット入り、一つ使ってみたけどだめでした・・・というのは、結構悔しい。他に方法があればできれば使いたくなかった・・・・・のですが、どうしてもうまくいかなければ仕方ない。

 で、使ってみたら、なんと、びっくりするほど純度の高いRNAが大量に取れてきました。かかる時間も、試行錯誤した方法の2分の1程度。10サンプル抽出するためのキットが約9000円。はい、九千円です。九万円じゃなく。

 ううん、これなら初めからこれを使って、ゴールデンウィークは休んで遊びに行けばよかったのに・・・・・。

 いえ、実験屋にはとてもよくあることです。そもそも、血球細胞だの、ヒト組織だの向けに開発されているハズの『キット』が、ヘテロシグマなんていうあさっての生物のRNAをきれいにとってきてくれる、というのも驚き&めっけもの、ですね。
 というわけで、GWが終わってしまった次の週は、このキットをつかっての実験に明け暮れました。

 という実験室内のあれこれとは別に、実は5月第2週には、もうひとつ大きな行事が。
研究所公開です。
 今年は、総勢403名の皆様がおいでくださいました。私たちも、グループのブースを出して、今取り組んでいる研究の背景の説明などをさせていただきました。
 こういうときに、早く研究の「結果」をご説明できるようになりたいものです。とはいえ、いろいろな方とお話をさせていただいて、「知らなかった!」と喜んでいただけたりすると、とてもうれしいものですね。
 終わった後は、所内打ち上げ&有志打ち上げ。充実した週末でした。

2013年5月10日金曜日

出羽守バナシ その1:阿漕なのか、なんなのか PartII

 さて、米国における研究費に関する話、PartIIです。

 最近日本にも導入されましたが、米国には、ながらく「間接経費」という制度があります。たとえば、アメリカのNational Science Foundationというところから、X教授が研究費を4年間で5000万円もらったとします(日本での文科省・科研費に相当)。この5000万円は、X教授が申請したとおりの目的・・・・物品購入・雑費・人件費などなど・・・・・に使われる、つまり研究の『直接経費』ですが、これ以外にX教授が実際には見ることがないお金が動いています。このお金が『間接経費』。額は、X教授が所属する大学が規定するパーセンテージで決まるのですが、だいたい直接経費額の35%から50%。つまり、この場合1650万円から2500万円の『間接経費』が動き・・・・これは、大学に入り、大学の予算の一部として使われます。

 考えてみれば、大学というところで研究をするためには、大学というインフラを利用しているわけです。研究室と自分のオフィスの床面積を占有し、水を使い電気を使いガスを使い、建物の掃除には業者さんが入ってくれます(研究室もオフィスも業者さんが合鍵で入って掃除をしてくれます)。建物は長年の間に修繕の必要が出るわけですし、また、美しいキャンパスを維持するには、当然庭師さんが定期的に入ってくれることが必要。・・・・・これらのコストは、もちろん学生さんの払う学費からもまかなわれるわけですが、間接経費は重要な資金源。既存の設備の保守にくわえ、新しい設備を導入したいと思えば、お金はいくらあっても足りない。
 というわけで、教官たちの研究費獲得とともに大学に入る間接経費は、大学にとってなくてはならない資金源。逆に言えば、大学は多額の研究資金を間接経費つきで取ってくる教官には経営上の出資元として負うところ多し、なわけです。

 となると、研究資金を潤沢に取ってくる能力のある教官は、これを材料として大学に昇給と研究室の床面積拡張を交渉します。ここで、交渉、という余地があるのが米国と日本の大きな違いです。
 Assistant Professorのレベルで大学に職を得る若い教官の年収(課税前)は、生物学の分野で、7~800万円程度(うち4分の1は自分で払うわけですが)、割り当て床面積も大体決まっています。・・・・・・しかし、10年から15年も経てば、研究費獲得能力の高い教官と、何とか生き延びている教官の間には、実にわかりやすい差が見られるようになります。研究室の広さ、その中にある設備、そして当然ながらその研究グループから出ている研究実績のレベルをみれば一目瞭然。

・・・・・・だけでなく、年収が2、3倍程度違うのは珍しくもない。結果、運転している車だの、住んでいる家だのにまで違いが出てきます。これは、公立でも私立でも、原則同じ。ただ、私立有名大学では、『やっと生き延びている人』を終身雇用にしないところもありますから、それらの人材を解雇した後に新しい人を入れて、との高度な淘汰の末に生き残った人はすべて優秀、結果のきなみ高収入、ということはありえます。また、所属している学部によって、この勾配が急なところと緩やかなところはあるようです。教官間所得格差のきつさは、私が前にいた大学では、医学・薬学>生命理学>>環境生態学。わかりやすいといえば、大変わかりやすい
(どうやって、そんなこと言い切るんだ?という向きのために、一言説明を。私がいた大学では、毎年、大学から給料を取っている人間すべての給料の額が、ネットに『流出』します。これ、合法的なことで、市民監査NPO的な学生団体(といいつつ、かなり面白半分なのではないかとおもえるのですが)がすっぱ抜く、のです。というわけで、あの教授の給料も、この教授の給料も、みんな知っているんです。これが流出すると、しばらくはお昼の話題はこれ、ですね)。

 ちなみに米国の場合、ほとんどの大学では、大学から研究室に降りる交付金というものは存在しません。逆に、大学が間接経費をまるまるもって行くのとは別枠で、直接経費の中から自分が所属する学部に上納金のようなものを納めさせる学部もあります。学部運営のための資金につかうわけです。

 というわけで、超・合理的なのか、それとも阿漕なのか。正直言って、私にはどちらともいえないのです。

 能力があり、実績を上げ続ける人が報われる。大変結構。

 でも。大学、とは教育機関、そこにいる教官は、教育職。教育っていう仕事は、単に『こなせばいい』仕事とは違う。プラスアルファ、いわば、『職業的良心』のようなものが必要不可欠な気がするんです。人間なんて、自分勝手なものだし、自分と家族を守らなければならないし。上記のようなシステムだと、わが身を守るために汲々とするあまり、『教育者としてもっていなければならないプラスアルファ』をどこかに落っことしてしまいがちな気がする。米国で、そういう例を結構な数見た気がする。このシステムを、合理的と評価しつつも同時に『阿漕』と表現する理由はここにあります。

 日本も成果重視の方向に来ているようですが、たとえば米国の状態までもって行きたいのかどうか。もって行くのならば、実に多大な覚悟が必要、としか、いいようがありません。

2013年5月3日金曜日

出羽守バナシ その1:阿漕なのか、なんなのか Part I

 昔々、海外に出ることを「洋行」などと呼んでいたころ、海外に行って、日本では見ることのできない風俗の、制度の、人の・・・・・を見てきた人が、コーフンして日本に帰ってきて、ことあるごとに「○○国では」「○○国では」と吹聴するのに辟易した周りの人たちが、その人のことを「では」「では」いう人、という意味で「ではのかみ」と呼んでいた、そうです。

 私は、アメリカのニューヨーク州ロングアイランドというところに張り付いて13年近く下働き研究員=ポスドクをしていたのですが、当然ながらこの間、アメリカならでは、な経験をいろいろさせていただきました。びっくりすることたくさん、たぶん嫌なことも多々あった(と思う)のですが、『おかげでいいことに気が付かせてもらった』と思い返せることがとても多いように思います。
 ならば、研究がらみの『出羽守』バナシをぽつぽつ書いてみようか、というわけで第一話。
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米国にいる間に、研究という仕事について、いつのまにか刷り込まれたことはたくさんありますが、その筆頭として私の頭に浮かぶのは、「研究費を取ってくる重要性」についての認識です。

 研究費がなくちゃ、試薬買えない。機器買えない。実験できない。

 このぐらいは、日本にいて学生している時でもおぼろげには理解してはいました。

 でも、米国の研究者の、『研究費獲り』に関する目の色の変え方は、かなり衝撃的でした。
 それというのも、米国の大学・・・・私立・公立の別なく・・・・での研究者の、プロとしてだけでなく私生活のレベルをも決めてしまうのは、研究費が取れるか否か、にかかっているといって過言ではないから、なんです。
 というわけで、阿漕なのかなんなのか、米国アカデミアにおける『カネ』というわかりやすすぎる『標準単位』についてのお話です。

 米国の研究費からそのコストがカバーされるものを上げていくと、以下のようになります。
 試薬消耗品、理化学機器、旅費、通信費、出版費用、技術補佐員、あるいは研究員人件費
 ・・・・・・ここまでは、日本の研究費でもカバーされていますが、違いはこれ以降。

 大学院生人件費・学費、そして、教官(米国式で言えばPrincipal Investivator, PI)の『夏季給与』。

 最近、日本でも、大学院生が研究室で研究をする時間にResearch Assistant=RAと認識して人件費を支払う、という動きがありますが、アメリカではこれが定着しており、指導教官は大学院生人件費にくわえて大学に大学院生の学費を研究費から支払っています(例外もいますが、私がいた州立大学の某学部では、払われていない学生さんは10%未満でした)。この額は、州立大学の場合でだいたい年に300万円相当ぐらいだと思います。つまり、大学院生が研究室にいれば、一人当たり300万円の費用は絶対に必要、なわけです。
 大学によっては、学費が高すぎて、学生さんを『雇う』よりもポスドク=博士号をもった研究員を雇った方が安い、ということがあり得ます。ポスドクは人件費部分は少々高くても、学費部分がゼロなためです。とはいえ、大学=教育機関、学生さんに教育の場を提供するための機関です。当然ながら、大学に教官として着任してから、自分の指導の下に何人の大学院生が学位をとったか、という点は、大学教官としての能力の査定の重要な一項目。Assistant Professor(日本で言う助教)で着任して、Associate(準教授), Full Professor(教授)と昇格していくためには、この項目で一定以上の能力を示すことが必要不可欠です。つまり、大学教官としての責務に忠実に、よき教育者でいようとすると、結局は研究費が要る。研究の進展のためにも、ラボには大学院生が常に何名かいてくれるほうが、いいに決まっています。というわけで、研究費を取ってくる甲斐性がなければ、研究の進展とともに自身の教育者としての身分が危うくなるのです。

  と、ここまででも、『シビア・・・・』という感じですが、もっとシビアなのは、PI自身の『夏季給与』。

 私が知っている限りでは、現在すべての米国の公立大学で、教官は「9か月分」の給料を払われています。米国の場合、大学というところは、2ヶ月程度の夏季休暇があり、春も冬も10日から2週間ぐらいの休みがあります。つまり、考えてみればProfessorたちが大学で教官として働いているのは9ヶ月程度。
・・・・・というわけで、大学は教官の年収の75%を出してくれます。あとの25%は、自分の研究費から補填するわけです。(ほとんどの大学では夏季の集中講義がありますが、これを教えればその分のお給料は時給でもらえます。着任したばかりの若い教官が、こういう授業を持つのはよくあります。ただし、これでは年間給与の25%にははるかに届きません。実際に教室にいる時間に対する時給ですからね。授業をするには、当然その準備が必要。初めて授業を教える教官だと、準備にかかる時間まで計算に入れると、時給換算ではファーストフードチェーンでアルバイトする高校生よりも安いかも。)

 つまり、研究費が取れなければ自分の年収が一気に25%減ることになります。
 米国と日本の公的研究費の支給額は、一般的なもので5倍から10倍ぐらいまでは軽く違うのですが、その大きな理由のひとつに、これら日本では計算に入ってこないタイプの人件費が上げられます。逆に言えば、アメリカでは、伝統的に上記のような人件費が組み込まれているので、応募申請にさえ通れば大きい額の研究費がおりやすい。やれやれ、タスカッタ。
・・・・・・でも、その一方の競争率。
 分野にもよりますが、私がいたころの米国では、公的研究資金の競争率は4倍から12倍程度だったと思います。少なくとも4分の3の申請者は夏季給与ナシの危険にさらされるわけです(とはいえ、どの人も複数の研究費に応募するので、あまりこういう実例は聞きませんでした。というよりも、生活を守るために皆が取れるまで必死に応募し続けるから、現実としてあぶれる実例はすくない、ということでしょうね。)

 研究費の申請書のページ数は、ほぼA4サイズの用紙に、現在は16ページまでかな?長いんです(日本の科研費は、個人で出す場合は5ページまで)。応募のチャンスは、ありがたいことに(?)年に数回。・・・・・これを専業で書くのだって結構大変。で、これを書き続けながら一方では、研究を進め(大学院生の指導をし、論文を書くあるいは推敲し、実験室で問題が起こればトラブルシューティングし、うんぬん)研究室を経営するための書類作成などの雑務もあるし、大学にかかわる業務も入り、授業だの実習だのも教え、学会にも出たいし、自分の読み物をする時間も必要だし・・・・・・。
 で、一方では給料の4分の1が削られる危険には常にさらされている・・・・・。

 そんな人生、楽しいわけ?

 ・・・・・・・・楽しいんだと思います。
 そして、米国でのこの人生には、実は『カネがらみのご褒美』が存在します。そう、この話、まだ半分しか終わっておりません。

 というわけで、続きはまた来週。