今回は、剽窃について。
剽窃って、最初に出てきたときには、なんて読むのさ?というぐらい特殊な言葉に見えましたが、つまりは引用先を明示しないで盗用することを指します。
何で、剽窃しちゃいけないの?と理由を聞かれれば、まずは、著作権の問題。引用先を明示しないと、無断転載に当たってしまいます。
面白いことに、自分が著者である論文をそのまま丸写しして引用元をしめさなくても『剽窃』になり得ます。なぜかといえば、論文がある出版社から専門誌上に発表されるときには、著者は論文の著作権を出版社に譲渡するという手続きを踏むのです。だから、私が書いて論文として発表した文章を、私がそのまま引用先を書かずに丸写ししても、これもアウト。自己剽窃、という、一見矛盾した状態はこういう場合に起きえるわけです。特に、以前の論文発表した図表や写真などを、自分が書く総説に使いたい、等という場合には、原則としては以前の論文を出した出版社に問い合わせて、転載の許可を取らなければならないというわけです(雑誌によっては、著者による再利用であれば引用元を明示していれば可と明記しているものもあります)。
というわけで、あの騒動の最中に、某大学教授がテレビのコメンテータとして出演して、「誰もが認める事実なんだからコピペは全く問題ない」とおっしゃったのは、大間違い。大学教授にこんなことを言っていただいては大変困ります。
逆に、極端に言えば『コピペ文・・・・・・(引用元を示す情報)』という風に、一つ一つのコピペ文に出所についての情報をきちんと示せば、一応OKということになるわけですね。
とはいえ、やはり自分の文章を書くのにコピペ連発では文章の体をなさなくなるわけで、元情報としてコピペしても、いろいろいじっているうちにもとの文章の情報は残っても、文章自体は残らないのが普通と思われます。
ここまでは当たり前といえば当たり前。
しかし、著作権なんていう法律用語を持ち出さなくたって、まとまった量の文章の剽窃は、やはり研究者としては相当恥ずかしいことです。
論文を書こうという時に、剽窃し得る部分としては、Introductionと Materials and Methodsでしょう。Materials and Methodsのほうは、そもそも丸写しで用が済むならば、○○らによる△△年に発表された論文参照、と書けばおしまいですし、細かいところを変えたのならば、大部分は○○らによる△△年に発表された論文の方法により、××の部分を変更した、と書けばよい。
問題はIntroductionのほうです。
Introductionは、その論文の研究を計画するきっかけになった背景を説明した部分。多くの先行研究の情報を整理して、そこから立ち上げた自分のオリジナルなアイディアを説明することが目標なわけです。やはり、ここが多くの引用文献にのっとって緻密に組み立てられたものであれば、論文の『格』が上がります。
難しいけど。
自分の研究の根幹にかかわる部分で、しかも難しいからこそ、ここの部分をはじめから投げて剽窃に走るというのは、見つからなくても、大変よろしくないわけです。とくに、これが、博士号という学位に値するか否かの審査に付される博士号論文ともなると、そもそも博士号を授与して大丈夫?という疑問は当然出てきます。そういう意味でも指導教官や審査員もしっかり目を光らせないといけなかったわけですし、そもそも、剽窃OK!なんていう教育はあり得なかったわけです。
ところで、この件についていろいろな研究分野の方が文章を書いていらっしゃいますが、そのうちのおひとりが、『いわゆる理系の実験科学者は、イントロを大変粗末に扱う』という意味のことを書いていらして、ドキッとしました。
以前から、本当だったら、実験を進めながらじっくり時間をかけてイントロを書き上げ、結果がそろったところで図表を用意して、結果・考察と書き上げて、実験方法を付けた上で要旨を書き上げて、最後に文献を付けておしまい、というのが本筋だとおもっているのですが、なかなかそれができない。
でも、イントロがしっかりしている論文ほど、読んでいる方だってひきつけられるし、論文としての格があがる・・・・ということは、いわば『上のジャーナルが狙える』研究になる、わけです、考えてみれば。
今回の騒動、見ていると胸が痛くなったり妙に消耗したり、ということが多かったのですが、私にとって、一つ収穫だったのは、この、Introductionの大切さを思い出させてくれたことでした。
岡山大 資植研 萌芽・学際新展開G公式ブログです。 毎週、私たちがどのような仕事をしているか、大学で研究するというのはどういう生活なのかをお知らせしていこうと思います。 どうぞよろしくお願いします。
2014年3月28日金曜日
2014年3月21日金曜日
残念な話
***以下の文章は、2014年3月20日午後6時現在の知識に基づいて書いたものです。***
クリーンヒットだ!!!と思ったのに。
心躍る発表からわずか2月足らず。捏造・剽窃のうわさも、最初は、同業者の妬み?かな??などと思っていたのですが。
いろいろな報道がなされて、ことが見えにくくなっているきらいはありますが、STAP幹細胞『論文』についての現時点での一番大きな問題点をまとめると、こうなると思います。
論文に示されるデータは、筆者と査読者双方が、『これこれの結論をだしたければ、これとこれとこのデータは必要不可欠』とみなしたものです。たとえば、図表が10枚ある論文が、一枚減って9枚になってしまったら査読は通らない=論証いたらなかったとみなされる可能性が極めて高い。
論証の際に必要とされた主要データが、論証されるために行われた実験の結果ではなかった(=捏造だった)ということは、『STAP細胞の存在を論証するために必要な証拠が存在しなかった』ことになってしまう。
『悪意を持って』捏造したか否かの証拠の有無が問題の本質ではない。
捏造には当たらないとはいえ、極めて望ましくない改ざんの形跡も見られる(理研調査委による表現)ことも、論文の一部分が、他人の論文からのコピペ(剽窃)であるということも、一番の問題点ではない。
今となっては再現性が取れない、ということが一番の問題なわけでもない。
今、問題なのは、
『発表された論文の問題部分を取り去り、しかもすぐさま訂正に使えるデータが存在しないということは、そもそもの命題(STAP細胞という存在)を正しいとする充分な科学的根拠が存在しない』
という点なわけです。
3月20日現在で、Natureの論文から問題の図だけが抜かれた形で、公共データベース(NCBI PubMed)に残っているとのことですが、それを読んで情報源にしたほうはたまったものではありません。さすがに、ここまで話が大きくなると、この分野の人はこの論文が問題あり、と知っているでしょうけれど。原理原則に鑑みて、この状態は異常。
じゃんけんでの『あとだし』はインチキですが、論文の場合、データを『あと抜き』して、でも論文の内容は信じてね、というのは、当然無理。限られた期間でも、このままで放置することが良いことなわけがない。
個人のバッシングは全く必要ないですが(しても何も出ませんし)、筆頭著者と、(調査に乗り出したからには)所属研究機関は、論文の問題部分を早急に正しいデータと差し替える義務があります。可及的速やかに徹底的に調査して、経緯はごまかしなく発表してほしいと思います。
とはいえ、STAP細胞についての疑惑が濃くなってくるにつれて出てきた、筆頭著者の博士論文剽窃についての話は、違う問題として考える必要が。
剽窃だって、もちろんいけない。(博士論文中のデータとして出された写真がどこかの試薬会社の宣伝写真のコピーだったのは、これはデータ捏造。画像剽窃とはいえない。)
でも、文章の大きな部分の剽窃については、指導教官・論文の審査官は何をしていたんだ?こちらの方が大きな問題だと感じます。
私も大学の教官なわけで、この教育と審査に携わる側の人間。あらためて責任の重大さを感じます。
ところで、最後に。
そもそも、この話が、研究者の間にとどまらず、これだけ大きな社会の話題になった決定要因としては、筆頭著者についての初期報道が挙げられると思います。これは、報道をセットアップした側(つまり、筆頭著者の所属機関と本人)と報道陣の両方が与しています。
リケジョって・・・・・。
なぜ、音として綺麗でも情報量が多いわけでもない略称を、みんなが使いたがるんでしょう。
筆頭著者が女性だということにあれだけウェイトがおかれるのは頂けないし、論点を取り違えている。
科学、とは、もともと論理的思考と事実の積み重ねによって成り立つ、硬質なもの。
研究対象に対する強い思い入れと執着という、実に人間的な(しかし性別とは関係がない)要因を除いては『誰がやっても同じ結果が出る=再現性』『誰がやろうが結果が一番大事』という程度はおさえておきたいものです。
クリーンヒットだ!!!と思ったのに。
心躍る発表からわずか2月足らず。捏造・剽窃のうわさも、最初は、同業者の妬み?かな??などと思っていたのですが。
いろいろな報道がなされて、ことが見えにくくなっているきらいはありますが、STAP幹細胞『論文』についての現時点での一番大きな問題点をまとめると、こうなると思います。
- 主要データが、数年前の別の実験の結果として得られた写真から流用された。
- 取り違えという可能性が主張されているとはいえ、一枚の画像が今回問題になっている論文と、別論文に別の実験の結果として掲載されていた=どちらかの結果として提示されているものは、悪意の有無にかかわらず『虚偽の報告』
論文に示されるデータは、筆者と査読者双方が、『これこれの結論をだしたければ、これとこれとこのデータは必要不可欠』とみなしたものです。たとえば、図表が10枚ある論文が、一枚減って9枚になってしまったら査読は通らない=論証いたらなかったとみなされる可能性が極めて高い。
論証の際に必要とされた主要データが、論証されるために行われた実験の結果ではなかった(=捏造だった)ということは、『STAP細胞の存在を論証するために必要な証拠が存在しなかった』ことになってしまう。
『悪意を持って』捏造したか否かの証拠の有無が問題の本質ではない。
捏造には当たらないとはいえ、極めて望ましくない改ざんの形跡も見られる(理研調査委による表現)ことも、論文の一部分が、他人の論文からのコピペ(剽窃)であるということも、一番の問題点ではない。
今となっては再現性が取れない、ということが一番の問題なわけでもない。
今、問題なのは、
『発表された論文の問題部分を取り去り、しかもすぐさま訂正に使えるデータが存在しないということは、そもそもの命題(STAP細胞という存在)を正しいとする充分な科学的根拠が存在しない』
という点なわけです。
3月20日現在で、Natureの論文から問題の図だけが抜かれた形で、公共データベース(NCBI PubMed)に残っているとのことですが、それを読んで情報源にしたほうはたまったものではありません。さすがに、ここまで話が大きくなると、この分野の人はこの論文が問題あり、と知っているでしょうけれど。原理原則に鑑みて、この状態は異常。
じゃんけんでの『あとだし』はインチキですが、論文の場合、データを『あと抜き』して、でも論文の内容は信じてね、というのは、当然無理。限られた期間でも、このままで放置することが良いことなわけがない。
個人のバッシングは全く必要ないですが(しても何も出ませんし)、筆頭著者と、(調査に乗り出したからには)所属研究機関は、論文の問題部分を早急に正しいデータと差し替える義務があります。可及的速やかに徹底的に調査して、経緯はごまかしなく発表してほしいと思います。
とはいえ、STAP細胞についての疑惑が濃くなってくるにつれて出てきた、筆頭著者の博士論文剽窃についての話は、違う問題として考える必要が。
剽窃だって、もちろんいけない。(博士論文中のデータとして出された写真がどこかの試薬会社の宣伝写真のコピーだったのは、これはデータ捏造。画像剽窃とはいえない。)
でも、文章の大きな部分の剽窃については、指導教官・論文の審査官は何をしていたんだ?こちらの方が大きな問題だと感じます。
私も大学の教官なわけで、この教育と審査に携わる側の人間。あらためて責任の重大さを感じます。
ところで、最後に。
そもそも、この話が、研究者の間にとどまらず、これだけ大きな社会の話題になった決定要因としては、筆頭著者についての初期報道が挙げられると思います。これは、報道をセットアップした側(つまり、筆頭著者の所属機関と本人)と報道陣の両方が与しています。
リケジョって・・・・・。
なぜ、音として綺麗でも情報量が多いわけでもない略称を、みんなが使いたがるんでしょう。
筆頭著者が女性だということにあれだけウェイトがおかれるのは頂けないし、論点を取り違えている。
科学、とは、もともと論理的思考と事実の積み重ねによって成り立つ、硬質なもの。
研究対象に対する強い思い入れと執着という、実に人間的な(しかし性別とは関係がない)要因を除いては『誰がやっても同じ結果が出る=再現性』『誰がやろうが結果が一番大事』という程度はおさえておきたいものです。
2014年3月14日金曜日
春まだ遠し・・・・
3月に入ったのに、倉敷はまだまだ寒い日が続きます。
その後すぐにつづけて、『拠点共同研究報告会』も行われました。当研究所は、2010年4月より「植物遺伝資源・ストレス科学研究」の共同利用・共同研究拠点となり、公募型の共同 研究をおこなっているのですが、日本全国に散らばっている、今年は47名の共同研究者が一堂に会しての成果発表会を行うわけです。1分間の口頭による研究紹介ののち、ポスター発表、というもの。このプログラムについて初めて聞いた時には、『一分間の口頭発表なんて、必要あるの?』と思ったのですが、やはり、研究テーマと研究者の顔と名前が一致した形でポスター発表に臨むというのはいいものです。
前日のシンポジウムから続けて参加してくださった方も多く、シンポジウムの懇親会でお話しした後の発表会でもあり、和気あいあい、いろいろな話を伺えて大変楽しい会でした。
それにしても、論文書き終盤x2本とシンポジウムと・・・・と続くと、手を使った実験がおろそかに。ここ2週間ほどで小いながら面白そうな発見をいくつかしたのですが、早く実験に戻りたいものです。
少しずつ気温は上がってはいるのですが、それでも、ひやりと寒い日が数日ごとにやってくる感じ。4月まであと2週間ちょっと、本当に桜が咲く時が来るのかしらん?と危ぶむ毎日です。
さて、先週は、当研究所が年に一回催す『資源植物科学シンポジウムおよび植物ストレス科学研究シンポジウム』が行われました。一研究所が催す『年会』のようにもとらえられますが、この会、実は大変贅沢なシンポジウムで、主に植物のストレス応答についての研究について、日本を代表する先生方の講演を2日間みっちり聴講することができました。
前日のシンポジウムから続けて参加してくださった方も多く、シンポジウムの懇親会でお話しした後の発表会でもあり、和気あいあい、いろいろな話を伺えて大変楽しい会でした。
それにしても、論文書き終盤x2本とシンポジウムと・・・・と続くと、手を使った実験がおろそかに。ここ2週間ほどで小いながら面白そうな発見をいくつかしたのですが、早く実験に戻りたいものです。
2014年3月9日日曜日
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