英語で、というよりたぶん、米語で、Bananaというとキチガイのことです。
Banana Scientistというと、アタマおかしい科学者のこと。膝まで積もる大雪の日に、培養をしなければと仕事に出る友人を見た大家さんが、彼女のことをそう呼んだんだそうです。
スラング、というにしてはかわいい表現ですね。
今週は、「宿題」でイタイ思いをいたしました。
安請け合いした論文の『査読』に、とっても時間を取られたのです。
査読、とは?
科学論文を書き上げて、ある程度の水準の科学雑誌に投稿すると、『査読』、英語で言うところの『Peer Review』というステップがあります。これは、論文を掲載するに先立って、学術的品質をチェックするためのもの。ある研究者が、論文を科学雑誌の編集部に投稿すると、編集部が、該当する研究に詳しい独立の研究者を3人ほど選んで、原稿の『審査』を依頼します。原稿を受け取った研究者たちは、それぞれの専門知識を生かして、その論文を隅から隅まで読んで、コメントを返すのです。
実験科学の分野であれば、例えば、提示された疑問点を解き明かす方法として、実験方法は適正か。実験結果は正しく評価されているか。これまでに発表されてきた研究結果との整合性はあるか。なければその理由が説明されているか。そもそもの最初に戻って、提示されている疑問自体が意義のあるものか。また、この論文は、その科学雑誌の水準に見合ったものか、などなど。それぞれのポイントについて問題があるならばそれを説明した評価報告書を編集部に送ると、編集部がそれをもとに論文の採択についての可否を決定する、ということになります。
大概の論文は、一度投稿しただけでは採択されません。大概の研究は、客観的にみると、「いや、その実験結果だけで、その結論を導き出すのはちょっと・・・・」という部分を含んでいる。すると、査読者がツッコミをいれ、このツッコミに論文著者たちが合理的に反論できなければ、論文は問題あり、として採択されないわけです。採択されるには、論文は著者たちに差し戻されて、著者たちが査読者のツッコミに合理的に答えるだけのデータを出して、それを加えてもう一度投稿、というステップを踏む場合がほとんどです。
生データの発表ではない論文も、存在します。たとえば、これまで発表された論文を網羅的に読み込んでまとめあげた『総説』。総説の中には編集部から著者への依頼によって書かれるものもあるのですが、それでもやはり査読に回されることが多い。こちらは、単一の論文ではなく、それこそ100報以上の論文を読んでまとめたものを評価するわけで、その分野に詳しくない務まらないし、評価にも時間がかかることになります。
投稿する側から見たら、重箱の隅までつつきまわしてくれて、ケチをつけることを任務とする査読者は、鬱陶しいことこの上ない存在です。
しかし、査読がなければ、みんなが好き勝手やりほうだい、言いたい放題になってしまう。自分がやっていることには、『片目をつぶりがち』『過大評価しがち』という、たぶん人間に普遍的な悪癖を、当然研究者も持っているわけで。これをあっさり許してしまったら、客観的事実の積み重ねによる真理の探究、が不可能になりますよね。
それでは、科学、というものが成り立たない。
というわけで、大げさに言えば人類の歴史を通して、科学に携わる者たちは、だれもが陥りがちな過ち=自分の研究の過大評価や、もっとシンプルにただの間違い、等のせいで科学というものがゆがめられてしまうことを防ぐために、同業者による厳正な審査=Peer Reviewという過程を研究の発表に必要なステップとして定着させたわけです。いろいろと問題も含むけれど、結局、Peer Reviewにかわるよりよい監査システム・論文を客観的観点からブラッシュアップするシステムは存在しないからこそ、こういう面倒な仕組みが今でも使われているわけです。
部外者から見れば「ははぁ、ごくろうさまなこって・・・・」なプロセスではありますね。
ご苦労様、といえば、ほんと、ご苦労様なのは、この『査読者』です。
他の業界で、出版物内容の厳正なチェックを第三者にたのんだら・・・・・・たぶん、安くても報酬が払われますよね。
しか~~し、査読にはこれがない。単に時間がとられるだけ。「能力の切り売り」という表現がありますが、査読には一定の能力は必要ながら、それを売りものにするわけですらない。それも給料の一部でしょ、という考え方もありますが、しかし、査読を任されるのは、研究者コミュニティの一部。すべての給料を取っている研究者が果たしている機能でもない。
でも、頼まれた論文が自分の専門分野とある程度の関連がある限り、査読を断る人ってまずいません。なぜかといえば、まず、査読者として選ばれるのは、その研究分野の公正な評価ができる研究者として客観的に認められているということで、名誉なことだから。そして、自分が属している研究分野の研究水準を保つことは、自分にとっても必要なことだと皆が自覚しているから。もちろん、査読者として他の研究者の論文を読む機会に恵まれる=論文が発表される前に情報にアクセスできる、という利点はあります。しかし、このようにして入手した情報は、極秘扱い。手にしたからと言って便利か、といったら、そうでもなかったりします。
有能かつ高名な研究者=お偉い先生ほど、ハイレベルな雑誌から多くの査読の依頼があり、しかも断らない。有能な部下に任せる、という手もありますが、一方で、多くの方々は、他の業務で忙しいのところ、睡眠時間を削ってでも、手間暇惜しまずこの任務を果たされます。大変ザンネンなことには、スバラシイ論文の査読は、『問題なし。すばらしい。』というコメントでいいのですが、困った論文に「問題外。却下!!」と思った場合、それではすみません。ダメな理由を科学的・論理的に微に入り細に入り説明しなければならない。コマッタ論文が手元に来ると、大変時間がとられるわけです。
私が今週ひきうけていたのは、残念ながら『コマッタ』論文よりだった。しかも、総説の査読だったため、思っていたのの何倍もの時間がとられてしまいました。とはいえ、これも大事な仕事の一部。過去に何度も目にした、多忙な大先生方の手を抜かない査読を思い出しながら、私もできるだけのことをさせていただきました。
それにしても、しみじみ思うのです。
結局、科学って、こういう研究者たちの実はかなり無償の努力でじりじり進歩しているのだなぁ、と。査読って、まるで「けちをつける」ために存在しているように思える瞬間もありますが、現在進行中の科学の質を向上させるためには、なくてはならない要素。この面倒くさい業務を、報酬も求めず、当然の任務として引き受ける『研究者』って、かなりフシギないきものだ。
学会だの、研究会だの、研究者がわさわさいるところに行くと、何となく落ち着くのですが、そういうときに、ふと思い浮かぶ言葉が、Banana Republic、なわけです。